「イケムラレイコ 土と星 Our Planet」展 自然の一部である人間の表情について

www.nact.jp

最初はあまり何も感じなかったのだが、部屋を先に進むにしたがって、だんだん引き込まれた。

少女というテーマでは、フェミニズム的な抗議でもなく、男性がこうあってほしいという勝手な理想の少女像では決してない。なぜかうつ伏せや仰向けになっていることが多いけど、自分は生きているという実存的な少女が描かれる。ぼんやりとした赤い背景の中にうつ伏せになって、おそらく前に進もうとしている少女。「みこ」というネコ?を抱いたままなぜかうつ伏せになっている少女のテラコッタ。最近のシルクスクリーン印刷による「アマゾン」にも通じる女性像だ。

Fujiface:富士山に溶け込む人の顔。森林や火山に畏敬の念を示し、神が宿ると考えてきた私たち日本人にとってしっくりくる組み合わせだ。タイのアユタヤで、仏の頭部が根っこに絡みついている木を思い出した。個人的にはもっと安らかな表情を見たかったが、安らかでも無表情でもなく、亡くなった人の表情のようだ。でもそれが不気味さをもたらすことはない。このような悠久の大自然の中では、人の一生などほんの一瞬であり、時空を超えた、あるいは人類の枠をも超えた表情に映る。あるいは、自然と一体になりたいという願望を象徴しているのかもしれない。

東日本大震災の後に、滋賀県立陶芸の森にて何人もの協力を得て作られたというウサギ観音。多くのアーティストが、自分にできることは何かともがいた自然災害。祈るとは何かということと対峙したのだろう。中が空洞になっているのは包容力を表すという。なぜウサギなのかはわからないが、作家にとって、日本人の心を包み込んで平和をもたらしてくれるシンボルのような存在なのかもしれない。やはりウサギは仏のような安らかな表情ではないけれども、かと言って無表情で突き放したような印象は与えない。何というか素朴な…これも一種のやさしさなのかもしれない。

木を愛しすぎて、ほぼ一体化したような彫刻。幼いころに木登りをするなど親しんできた人にとっては、ごく自然な表現だろう。このようにイケムラの作品は、一見突飛なのだが、かえって自然の中のごく小さな一部でしかない我々を描写しているからこそ、不快感をもよおすことはなく、新鮮ですがすがしいのである。

インタビューで、スイスのドイツ語で流ちょうに答えるイケムラ氏。目をぱっちりと見開き、やはり若くから欧米で活躍した草間彌生さんを彷彿とさせる鋭さを感じる。世界に何かを与えることはできたか、それとも世界は関係なくてアートをやっているだけなのか?という質問に対し、深淵をのぞき込む能力が自分にはあるのだろうと語っていた。

神島裕子『正義とは何か』メモ

サンデルの言うように、「私は自分の正義を、君は君の正義を」では、単なる相対主義に陥りかねない。正しさとはなんだろうか? プラトンいわく、理知、勇気、節制の三つの徳のバランスがとれているときに魂は正しくある。これが正義。

ウォルツァー(1981)いわく、哲学的に正しいことであっても、民主主義の下では、それを採用するかどうかは私たちが決める。共同体内部で得られる政治的知識は、唯一の哲学的知識とは異なり、共同体の数だけある。

ロールズ

  • 社会全体の厚生よりも、個人の自由と権利が優先。正義原理のかかる対象は「基礎構造」(制度のこと)。
  • 第一原理:基本的諸自由(政治的、言論、良心、…)の最も広範な全システムについての平等。最も広範な全システムとあるので、ある自由のために他の自由を制限することはあるが、なるべく最小限にとどめる。
  • 第二原理:そのうち格差原理:不平等を、正義にかなった貯蓄原理と整合させつつ、最も恵まれない人の最大の便益に資するようにする。
  • アリストテレスの比例的正義と異なり、功績や地位によらず、分配を行う正義。
  • まだ決まっていない原初状態(オリジナル・ポジション)にあるメンバーが、無知のベールに包まれて、合意するルールは、誰にとっても公正となるはず。
  • (運よく)才能を持って生まれた人がそれを使って得た所得・富は共有して、最低限の暮らしを保証する。
  • どのようなWell-beingの構想を持っている人でも、自由で合理的な人であれば、社会のメンバーとして生きる上で必要とされる基本財が、社会の基礎構造を通じて分配される

アマルティア・セン

基本財ではなくケイパビリティの平等。財(達成する手段)と潜在能力(実質的自由)と機能(達成された状態)。

スミスの共感に基づいた「公平な観察者」に対し、ロールズは、無知のベールの背後の当事者のほうがより公正な判断を下せるとしていた。センは、ロールズの契約説を「閉ざされた不偏性」と批判、スミスの衡平な観察者による「開かれた不偏性」に可能性を見出す。

コミュニタリアンによる共通善の政治

ロールズは、自分が誰であるかを知らない人々が考えるからこそ公正としての正義にたどり着けるとしたが、コミュニタリアンは、どの目的=善からも自由な正義には意味がない、抽象的で普遍的な正を、具体的で特定の膳に優先させていると批判した。人はある生を生きていて、負荷なき善ではなく、特定のコミュニティの中での善をつくる。文化や伝統などの文脈を持たない「負荷なき自我」をロールズは想定しているが、実際の自我は特定の文脈の中で自分が何者であるのかを解釈する「位置づけられた自我」。

具体的には…

  • 共通善への献身を市民のうちに育てる教育(ボランティア義務)
  • 臓器や妊娠などお金では買えないものの市場制限
  • 連帯とコミュニティ意識の育成へ向けた学校等の基盤の再構築
  • 共通善への政治への関与(道徳や宗教に関する争いを回避するのは偽りの敬意にすぎない。真っ向から議論すべき)→ロールズ以降のリベラリズム「中立性」への批判。妊娠中絶や同性婚を、リベラリズムのように「個人の選択の問題」と中立を気取るのではなく、きちんと政治が介入して議論すべき。

マッキンタイア『美徳なき時代』「物語は、孤高の場合を除けば、語られる前に生きられているのだ。」Xにとっての善い生は、その人が属する共同体の伝統の中にある。共同体の物語を全うするのがその人にとっての良い生。

フェミニズム

オノラ・オニール:権利=請求権には、それに対応する義務の担い手がいる。でも義務の中には、完全義務とできるものもあるが、「気づかいをする」など、義務ではなく徳として奨励すべきもの(不完全義務)もある。そのため権利から議論をスタートさせると、後者が軽視されてしまう。そこで、義務から議論を始めよう。自由権は不可侵で完全義務であるのに対し、財・サービスの請求権は不完全義務とされることが多いが、女性に特有の妊娠・出産に関するマタニティケアなどは、不完全義務とは言えないのではないか。こうした義務の提供は、分配的正義の対象となる。

マーサ・ヌスバウム:私たちは何者か。古典の中で称賛されてきた機能Functioningsからスタートしよう。さらにそこからケイパビリティに戻れば、必要なケイパビリティのリストが得られる。ケイパビリティはアリストテレスの可能態(デュミナス)、機能は現実態(エネルゲイア)に相当する。

とはいえ、アリストテレスそのままではない。アリストテレスは、知性的・倫理的働きを全身全霊で実践し続けることで実現する幸福(エウダイモニア)を最高位の善とした。これに対しケイパビリティは、機能を果たしているかどうかではなく、幸福になれるかどうかに注目。個人の選択によって、幸福にならなくてもよい。たとえば女性に志操堅固を押し付けるといった、個人の選択を狭める伝統が批判の対象になっている。

所感

リベラリズムリバタリアニズムコミュニタリアニズムフェミニズム、コスモポリタニズム、ナショナリズムの6つの正義論を論じ、そのどれかに肩入れするでもなく、切磋琢磨する様子を描いている。女性についての章があるのが特徴的。同じように、社会的な障がい者についても論じても良かっただろう。

本書全体として、バランスの取れた中立的な見方がされているのが長所で、短所でもある。様々な理論が切磋琢磨しているというのはその通りだけど、でも自分は何も選びませんというのだったら、それこそコミュニタリアンによる過度な中立主義という批判に耐えられないのではと懸念。たとえばヌスバウム的なケイパビリティを重視するのか、それともアリストテレス的に最終的な善の実現を重視するのか?私自身は、ケイパビリティすべての集合ではなく、かといって一つの機能でもなく、個人の多様性を反映して機能をもう少し幅広く規定したものにするのが生産的ではと感じた。

ロールズ以降の(コミュニタリアンからすると)行き過ぎた中立主義について、現代社会の寛容さでもあり生きにくさでもある。ここで指摘されているように、多様な価値観を認め合わなければいけないという考え方から、「それは違うんじゃないか」と言いにくくてストレスがたまるということもあるだろう。

こういう本を通じて、女性や障碍者や外国人を巡る現実の問題に対する議論がより深まるとよいなぁ。さらに若い読者の中から、新たな道徳哲学の理論、特に東洋哲学のエッセンスも盛り込んだようなものが提示されないかなぁ。

カタストロフと美術のちから

東日本大震災の衝撃はまだ残っているけれど、少しずつ薄れつつある。そんな自分の意識を少し変えたいというのもあって、訪れてみた。

www.mori.art.museum

展覧会でフィーチャーされているメインの作品はもちろん印象的だ。冒頭のThomas Hirschhornによる紙で再現した災害後の建物(でも高校の学園祭で作った迷路を思い出してしまった)やオノヨーコの参加型アートはインパクトが大きい。

でももっと小粒の作品も色々と考えさせられた。アートとしての完成度と、思考の糧になるかどうかは別物なんだな。

たとえば混乱が続くパレスチナのラマラにピカソの作品を持ち込むというイベントのドキュメンタリー。これこそ、皮肉でも何でもなく、カタストロフの渦中でのアートの力である。その他の作品は、渦中ではなく、事後(アフターマス)でのアートの役割を問うものになっている。それに何といっても、ピカソゲルニカの作者なのだ。冒頭に引用されているけど、Every act of creation is first an act of destruction. すべての創造は、破壊から始まる。とはピカソの言。

また、チェルノブイリ原発事故の数日後に開園予定だった遊園地のアトラクションを解体して、マンチェスターまで運んでそこでアトラクションを再開するドキュメンタリー。マンチェスターのお客さんは純粋に乗り物を楽しんでいるが、どことなく虚ろな感じもする。チェルノブイリの人たちが享受したであろう楽しみを、時間も空間も異なる自分たちが享受する居心地の悪さなのかもしれない。

そして地震に見舞われたNZクライストチャーチにおける、紙で作った教会のミニチュア。坂茂はむしろ災害時における活動をライフワークにしている。

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作家名/作品名:坂茂《紙の教会 模型》
この写真/動画は「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスでライセンスされています。

ジリアン・ウェアリングの作品で、スーツを着た男性がI'm desperateと書かれた紙を掲げているのを「絶望的」と訳しているのだけど、ちょっと限定しすぎでは。語感としては、なかなか思うようにいかなくてかなり焦ってます、的な心情も含まれるように思う。それはともかくこの作品は、周りの人たちはうまく言って自分だけうまくいかないように思えることもあるけど、でもみんな苦労しているんだということを思い出させてくれる。

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作家名/作品名:Gillian Wearing《Signs that say what you want them to say and not signs that say what someone else wants you to say》
この写真/動画は「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスでライセンスされています。

当初、カタストロフの定義がかなり広いのが気になった。たとえば、引退して夫にも先立たれて「もうどうでもいいIt doesn’t matter」が口癖になった女性が少しずつ自信を取り戻していく様子(Katerina Sedaの作品)。インドの結婚持参金を用意できずに子供を殺された女性が慣習の廃止を訴える様子。これらは一見個人的な悲劇であり、カタストロフと定義するのはどうだろうと首をかしげてしまった。でも実は、こういう個人的な視点にいったん立って、一人ひとりが外的なショックからどう立ち直るかということの積み重ねが、社会経済全体のカタストロフにどう対応するかということのヒントになるはずだ。

森美術館で6年前に開催された「メタボリズム展」を思い出した。メタボリズムとは、戦争や自然災害からの復興の過程でもあるのだ。カタストロフに遭うのは避けたいけど、でもどうしても避けられないこともある。もし遭ってしまったらそれは運命と受け止めて、そこからどう這い上がるかを考えよう。池田学が見事に描いている、がれきからにょきにょきと美しく伸びていく大樹とその周りで生きる人間。永遠に続くものなどないが、終わったところから何かが始まるのだ。そのために希望を失ってはいけないことを教えてくれる。

今やどこもかしこもESGやらSDGsやらだ。でも持続可能な発展というのんきな標語には、そんな山あり谷あり、破壊と創造も含めて考えるべきなのだ。というか、そんなショックすら前提にしていない発展など絵に描いた餅でしかない。

そしてアーティストには何ができるのだろうか?今回の展示のプレディスカッションの中で、「自分がやっているのはアートなのかどうかはわからないが、とにかく対話することが重要」という趣旨のことを言っているアーティストがいた。アートだボランティアだなどと気負わずに、まずは現地で何が起こっているかに耳を傾けることなのだろう。

Kyotographie2018その4、というかほぼKG+

細見美術館 ジャック・アンリ・ラルティーグ

こちらはKyotographie 2018の関連プログラムで、別の日に訪れた。フランスの作者は、幼いころの仕合せな日々を記録に残しておきたかったという。多感な二十歳の時に第一次大戦となるが、影が差したような作品は皆無で、何気ないが幸せな日常が描かれる。

人の跳躍の瞬間をとらえたような一連の作品や、三兄弟が並んで遊具にこいのぼりのように乗っている作品などが有名なようだが、60年代の作品もお洒落なフランス映画のワンシーンのようで良い。下記のポスターにもある、赤花柄のカーテンに縞模様の影が差し込み、その奥に可憐な女性が座ってこっちを見ている。「アッピア街道」は、シンボリックな木とカモメのような鳥が翼を広げ、アッピア街道の行き先が消失点のようになっている。構図が完璧な絵画のような強烈な印象を残す。

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淳風小学校 杉山有希子 Crash

淳風小学校はKG+の数々をまとめてチェックできる。丹波口から徒歩で西本願寺北へ…やっぱ遠いわー。

まず、KG+アウォードでファイナリストとなった杉山さんのSFのような作品群。まるでそれ自体が生態系として動き出しそうなスクラップの塊の、圧倒的な質感。砂漠に放置されたスペースシャトルのような飛行機。居眠りしている人の顔から吹き出しが出ているように見えなくもない。森の中で朽ち果てた燃費悪そうな70年代の車。なぜか、見たこともないはずなのに、私たちの記憶を遠くたどってくれるようだ。

工業化によって人間は自然と共生しなくなり、自然を対象化して破壊するようになった、とはよく言われるが、ことはそんなシンプルではない。自然物と人工物、その境界はとても多様な形態を持ちうることに気づかされる。

むしろ人工物がその役割を終えて自然に戻ろうとするときに、私たちと自然とをつないでくれるのかもしれない。いや、彼らは戻ろうとしてもなかなか戻れないことで、その存在を私たちに知らしめてくれるのかもしれない。卑近な話だが、「ピアノの森」で、かつては超絶ピアニストが所有していたが、彼の夢が絶たれたのと同時に森に打ち捨てられたピアノのようだ。

www.yukikosugiyama.com

顧剣亨 utopia

主人公は4人の男性だが、彼らが画面に占める面積はごくわずかで、少し霞のかかった海と遠くの山々がのしかかる。一見してユートピアではないし、でもディストピアでもない。これは私たちが住む不完全な社会(カコトピア)で、楽観も悲観もせずに、でも今日よりちょっと良い明日を追い求める私たちそのものの姿だ。グランプリおめでとうございます:)

Nicola Auvrey

カナダで神々しく輝く一つの事務所前のベンチに座り続ける娼婦Lisaのクロノロジー。もう二度と会うことはないであろう、全然違う人生を歩む人との一期一会。

部屋の奥にある机上の作品集Attractions Nocturnesが素晴らしかった。特にモノクロのトンネルの真ん中にかすかな人影が残る一枚は印象に残る。人影がかすれることで、過去・現在・未来を行き来する人のように見えてくる。被写体は単なる木だったり、扉だったりだが、幻想的で、夜の光の中に神々しく浮かび上がる姿が映画、それもヴィム・ヴェンダースの作品のワンシーンのようだ。

フランス出身NY在住のアーティストが話しかけてきた。彼は会場に積極的に赴いて来場者と交流することで、いろんな気づきを得ると言っていた。私も仕事で、プレゼンテーションの準備を兼ねてしゃべっていると、論理的に変な部分とか新しい視点とかに気づいて得るもの多いから、そんな感じなのかなぁと共感できた。連絡先を交換して、新幹線出発が1時間後に迫って来たので、五月雨の中を足早に去った。

Nicolas Auvray | Official website of NYC-based photographer

というわけでKG+は、杉山さんとNicolaさんがよかったです。

やはり今回も来て良かった。ありがとうございます、KyotographieとKG+のみなさん!

Kyotographie2018その3

今回のハイライトは最終日にやってきた。

誉田屋源兵衛 深瀬昌久

まず室町四条を上がったところにある誉田屋源兵衛。毎年すっかりおなじみの会場となった。長屋の手前のほうでは、海外では有名な深瀬昌久の猫やカラスや自画像。猫の視線で、サスケという猫を追い続けるうちに、自分も猫のようになってきたという。あなたは犬派?猫派?という二分法が巷にはあるようだけど、猫派を自称する人たちは目線や動き方が猫と同じと感じるものなのだろうか。人間のいたずらっ子のような表情を見事に引き出しており、陰陽に浮かび上がるサスケの影の捉え方も独特だ。写真をピン止めなど加工して、さらにポラロイドでとったという作品も。

自画像は、現代の自撮りのようなもので、いろいろ工夫してユニークながら、あまり共感はできなかったが…。

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誉田屋源兵衛 ロミュエル・ハズメ

奥の通路を抜けたモダンな蔵のような会場は、過去数年はアラスカの雪原や太平洋の鳥を解体したらプラスチックだらけだったといった展示が印象に残っている。今年は、西アフリカはベナン出身のロミュエル・ハズメによる作品。

丸みを帯びた壁面を活かして、ガソリンスタンドというタイトルの横長の作品が掲げられている。巨大ペットボトルに入れられたガソリンが並べられた光景は、12年前にインドネシアブンタン島で目にした光景を思い出す。この辺の人々はヨルバという民族で、エグングンという仮面を着けて踊る。日本各地に残る伝統行事と同じく、先祖=死者の魂が戻ってくるという意味があるというから興味深い。あとは、ポリタンクやほうきなどで作った人の顔や、使い古しの傘で作ったインスタレーションなど。

京都文化博物館別館 ジャンポール・グッド

ジャンポール・グッド氏による、もはや写真展の域を大幅に超えた複合メディア?インスタレーション作品。壁面にはこれまでの作品が並べられ、中央にはとんがった鳥のようなカラフルなオブジェが置かれ、(フランス在住)ロシア人ダンサーが美声を発しながらスルスルと動き回っている。最初は精巧にできた電動人形?と思うほどスルスル感があったが、まごう方なき生身のダンサーであった。スタイリッシュで伸びやかで、鑑賞者も解放される感覚を味わえる空間。

ロシアの文学カフェでは、女優がプーシキン叙事詩などを朗読するらしい。それが歌うようにも聞こえるらしいと知って、今回のロシア人インスタレーションもその伝統を取り入れたのかと合点がいった。

普段は立ち入れない元日本銀行京都支店の2階では、グッド氏の作品のメイキング映像So Far So Goudeを上映。同氏、最初はウエストサイド物語や雨に唄えばなどアメリカのダンスに入れこんだが、絵描きやイラストレーターにもなりたかったとのこと。日本人の先入観と違って、フランス人がアメリカ文化にいかに影響を受けており、ヨーロッパとアメリカの文化の緊張感から生まれるものがいかに多いかを示している。

ココシャネル、ペリエ、エゴイストなどの広告のメイキングは万人に爽快な印象を残す。良くも悪くも広告は無意識に訴えかけるというが、彼の広告は、その商品を欲しいという本能が我々に備わっているかのように思わせる強さがある。山頂におかれたペリエを巡って、いったんはライオンに怖気つく女性が、吠え返してペリエを自分のものにする、ドレス姿の女性がガラスのショーウィンドーをけ破って香水を手に取り、そのまま刑務所送りとなる、3人のモデルが香水をボーリングレーンに投げ、心の底からストライクをたたえ合う、等。使い古された表現だけど、どれも強い女性の自己主張を掘り起こしたと言えるのかもしれない。

堀川御池ギャラリー 森田具海

三条通のカフェでいつものプレートご飯をいただいてから、ギャラリー素形、便利堂を経て、堀川御池ギャラリーへ。

1966年閣議決定以降の成田空港建設反対運動(三里塚)を象徴するフェンスに囲われ、成田空港近辺の無人の風景が収められる。予備知識がなければ、ホッパー的な寂寥感を誰もいない空間で表したんだろうかという印象も受ける。なかなかこれだけではメッセージは伝わりにくい印象。

作者(森田さん)は三里塚水俣学に重ね合わせようとするが、うーん、どうだろう。もちろん、そこに昔から住み続けている地元住民が横暴な権力に抵抗するという構造は共通しているのだが、健康と障害、そして当初はメカニズムが分からなかったが今は科学的な解決法があるという点は決定的に異なるような。三里塚も権力との闘いだけど、日本国民ほぼ全員が空港には賛成していて、実は「権力」の中身は社会の多数派そのものだったりする。

権力が弱くなるほどフェンスは強くなるという指摘、なるほど。ブルース・シュナイアー氏の著書に、内部の信頼が弱くなると物理的な外部のセキュリティに頼るようになる、というようなことが書いてあったっけ。

小野規

2階にある、小野さんによる東北沿岸の防潮堤建設の作品。解説にあるようにこれは防潮堤に対する抗議や批判ではなく、あきらめにも似た受け入れなのだろう。一言で防潮堤といっても色んな表情があることがわかってとても面白い。

たとえば従来の防潮堤が黒くなっているのにかぶせるように建設されている部分は、やがて増築された部分も黒くなって、もとからあった光景として溶け込んでいき、年輪のように防潮堤が重ねられていく将来を暗示しているかのようだ。重機や作業員によって今まさに整備が進められている光景は、これが雇用に貢献する公共事業であることを思い起こさせる。人工物であっても、いや人工物だからこそ、人の生活といろんな形で結びつくはずなのだ。

京都市中央市場 K-NAF

時間も無くなってきたが、二条から丹波口エリアへ初めて行った。フランス人アーティストK-NAFによるHatarakimonoプロジェクトは、超普通(Super ordinary)な働き者を普通じゃない(Extraordinary)手法で描き出すという趣旨。これが京都市中央市場の薄汚れた(失礼!)壁面にポスターのように貼られている。労働するという感覚、いいですね。評論家になってはいけない。私たちは毎日仕事が大変だとぶつぶつ文句言いつつも、仕事を通して社会や人の役に立っていると実感することで、生きがいを得ているのだ。この作品からは、そんな地に足の着いた労働観・生活感が伝わってくる。

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三三九 ギデオン・メンデル Drowning World

貯氷庫に昭和の産業機械が鎮座する高湿な空間にうってつけの展示だった。予備知識なしに見たので、あえて水に浸かって撮ったもの好きな写真…かと思いきや、アメリカ南部やブラジルやインドなど13カ国の洪水発生直後の人々が、途方に暮れつつも目の前の状況を静かに受け入れる様子を映し出したもの。

動画では、別の国での洪水後の我が家の復旧に当たる作業がシンクロして映し出される。災害が一瞬にして日常を破壊することを痛感、災害の記録としても貴重だ。でも一方で、ほとんどセリフなしで茫然としつつも我が家を淡々と片付け、カメラの前で取り乱しもせずにたたずむ人々を見ていると、むしろ人々の強靭さのほうを感じる。

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Kyotographie 2018 その2

www.kyotographie.jp

建仁寺両足院 中川幸夫

生誕100周年とは思えないほど自由で現代的で突き抜けた発想の生け花の写真パネルが、畳の上に並べられている。枯れかけた花も見事に生けられている。白菜を立てて生けたような作品は、故宮博物院の白菜を思い出した。もはや原形をとどめていない真っ赤なカタマリなど、ぎょっとするのもあってすべてを好きにはなれないけれど。

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両足院の会場は、庭園を通って離れにも展示があり、こちらも例年通り静謐な空間を生かした印象的なもの。小さなふすまを開け放ったところから花びらの流れができており、それを視線で追うと、中川の作品が床の間に飾られているという仕掛け。もう一つの離れには、花で作った真っ赤な聖書の写真の前に、豪華絢爛な蘭が生けられている。中川の作品は生け花を通じて過去と現在と未来とをつなげているという趣旨の解説があったが、インスタレーションと組み合わせることで、現在の「今この瞬間」だけの香りを通じて、私たちが生きているという感覚までつなげてくれるのだ(大げさかな?)。

ASPHODEL 宮崎いず美

寿司をおかっぱ頭に乗っけたり、リンゴの皮をカミソリでむいたり、いわゆるシュールな自画像。独創的で面白いのは確かで、注目されているのも理解できるのだけど、うーん、自分の部屋に飾りたいかと言われると…。ブロッコリーの雲の背景は、こないだ見た田中達也さんの作品のよう。

ご本人の作品集後書きによると、かわいいだの頭良いだのスポーツできるだの、才能にあふれる他の人に埋もれてしまう自分よ、落ち込まずにがんばれ、的な発想だったそう。今年のテーマUpそのものの、上昇志向だ(そういえばREMの90年代のアルバムにも同じタイトルのものがあった)。必ずしもポジティブシンキングではない、でもがんばろうみたいな、うるさ過ぎない中庸な上昇志向に共感できます。比べるのは他人じゃなくて、過去や昨日の自分。

Up

Up

ギャラリーギャラリー

さてこちらは番外編というかKG+です。四条河原町を南に行ったところにある1927年完成の寿ビルディング。金融業が入っていたが、1929年の恐慌でテナントビルになり、解体の危機に会いながらも現存しているとのこと。ここの5階は子供向け本屋とかギャラリーとかの小部屋がある。こういう空間が大切に使われているのはいいなぁ。京都の街を形作っているのは、寺社でも町屋でもなく、実はこういう近代建築だったりするのだ。

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京都 近代の記憶

京都 近代の記憶

展示は、写真と布が出会ったらどうなるかという趣旨で、彼らはそれをPhoTEXと呼んでいる。写真プリントTシャツをさらに繊細に推し進めた作品群は、どれもきれいです。もしかしたら出展アーティストは既に考えているかもしれないけれど、かすりとか着物とか、伝統的な織物と写真プリントという組み合わせも面白いんじゃないかしら。もちろん、何でも突飛な組み合わせを考えればよいわけではないのでモチーフは慎重に選ぶ必要があるけれど。

あと、写真×布という組み合わせでいえば、2016年のKG+に出展していた水渡嘉昭さんは、布にプリントしてまるで庭に洗濯物を干すかのようにラテンアメリカの街風景を展示して、爽やかな風にそよぐ感じを見事に再現されていた。

www.kyotographie.jp

Gallery PARC 守屋友樹

こちらもKG+。室町蛸薬師を少し北に行ったとこにあるギャラリー。イノシシが現れた神戸市内の閑静な住宅地を歩き回って、人もイノシシもいない風景を撮るとどうなるか、という趣旨。人為と自然とのせめぎ合いが続いてきた六甲山付近で、やはりそのせめぎ合いから遭遇するイノシシに注目している。人と自然との境界ってなかなか奥深いので、是非深めていただきたい。

嶋台ギャラリー フランク・ホーヴァット Un moment d’une femme

御年90のイタリア人(当時はイタリア領だったが今はクロアチア領らしい!)がフランスを中心に世界各地でパシャリと撮ってきたファッションデザインや街の風景。パリで通りがかるモデルを鼻の下伸ばして見入るおじさんたちとか、NY地下鉄のドアから見える風船売りのおじさんとか、自分のショーを後ろからこっそり見るココシャネルの影とか、草を売る女性を後ろから写した作品(草が歩いているように見える)とか。

少し離れたところにあるモンドリアン柄のマントの写真は、白黒なのにすぐモンドリアンとわかる。色彩は必須のような気もしていたが、実は構造が重要だったのかも。

アンリカルティエブレッソンのような、瞬間を切り取るすごさは感じないけど、2016年に京都市美術館別館でやってた「コンデナスト社のファッション写真でみる100年」同様、ファッション写真の変遷としても面白い。

www.kyotographie.jp

*[アート] 人間とその他との境界

www.youtube.com

進化する人類というエントリーをしたので思い出したけど、今年の夏に、似たような趣旨の展覧会をシンガポールで見てきた(同じタイトルの展覧会がダブリンでもあったが、かなり構成が異なるようだ)。

本展の第一部「能力の拡張(Augmented Abilities)」で紹介されている、昔から体の一部を機械で動かすパフォーマンスをしてきたオーストラリアのStelarc氏、1996年のアトランタ五輪パラリンピック炭素繊維の義足を付けて走ったAimee Mullins氏の「チーター足」、頭頂部に触覚みたいなものを植え込んで英国政府にサイボーグと公式に認められたNeil Harbisson氏など、昔から世に問うてきた先駆者に敬意。

この展覧会は、人間の内面というベクトルには進まなかったけど、自分のコピーロボットやAI(そして火災報知器のようなHAL)は意思や意識を持つのか?と考えると、ブレードランナーの「生身の人間とレプリカントの境界ってどこ?」という問いかけにも通ずる。

wired.jp

人間とAIの境界というテーマは、重いし避けられないけど、最近やや食傷気味でもある。では人間と自然の境界とは?(こっちも食傷気味かもしれないが…)

そこで個人的に一番面白かったのは、Authoring Environmentsというセクションで紹介されていた、Laura Allcorn氏の、人間が受粉をするためのキット(The Human Pollination Project)。2006年ごろから、ミツバチが突然大量にいなくなるCCDという現象が見られるようになった。もしミツバチの活動を人間がすべてやらなければならなくなったとしたら?という問いかけだ。生態系にはこんなに価値がありますという話はどこにでもあるけど、実際に人工物で自然を代替する取り組みをやってしまうのは、開眼だった。

アートやインスタレーションでの問いかけは、フィクションを超えるインパクトを持つこともあるし、未踏の領域における哲学的な問いかけに適しているのかもしれない。

余談ながらAllcorn氏、今はユーモアについてのプロジェクトで忙しいようだ。全然違うけど、こっちも面白そう。

IFCI