距離×コミュニケーション、人工×自然

ネットで知り合った方に教えていただいたのだが、デンマーク設計事務所BIGの作品で、コペンハーゲンに8ハウスという建物がある。その人いわく

広大な国立公園の目の前に位置していてルーフガーデンがあったり、建物内は敢えて各部屋の庭と隣接する長いスロープを通らないと部屋に辿り着けない設計で、住民同士の交流が促されるようになっていたり、自然との調和×コミュニティ×モダンデザインの掛け合わせが最高に素敵な建物

だそうだ。面白いなー。インターアクション・デザインって言うんだって。「建築家は人間関係を築いているのだ」と言っている人がいたけど動線によって交流が深まったり自然に触れたりという好例。

もちろんオフィススペースでもインターアクションを促すような動線はいろいろ議論されているはずだ。画像検索で見ると、BIGの事務所は何の仕切りもない感じだ。

私が昔いた会社では、途中からフリーアドレス制になって、何の仕切りもなく好きなデスクに座ってカタカタ仕事する感じで、意外と気に入っていた。インターアクションが促されたどうかはわからないけど、確実に動線は変わって自由度も増した。

(ちなみに今の職場でも、最近部屋を引っ越して、デスクトップがむき出し状態で、無駄なものがなくてスッキリしてるんだけど、そばを通る人が私の視線を感じるかもしれないので、パーティションを買うことにした。)

ソーシャルディスタンス×インターアクションデザイン

コロナの時代、換気と距離と健康を保ちつつコミュニケーションがとれるようなデザインも生まれてくるのではという期待もある。複数の人から聞いたんだけど(そのうちの一人はアムステルダムのホテルの朝食会場でWiFiパスワードを聞いてきたアメリカ人のお姉さん)、最近の建築業界では建物×健康がトレンドなんだって。住んでいる人の心身の健康を高めるのはどんな建築か、という視点。健康への投資がフロンティアになっている今、当然といえば当然。

コロナで閉館していた図書館に久しぶりに行ったけど、入口と出口の動線が一方通行になっていた。物理的距離を高めつつ、錯覚でもいいから心理的距離やインターアクションを促すようなデザインをビルトインしたり、既存の公共施設についてはアドオンしたりする工夫がこれから必要になりそうだ。

人工資本×自然資本

それだけでなく、8ハウスは、人工的な資本でありながら、インターアクションによってソーシャルキャピタルを醸成し、自然資本のありがたみを味わえるものになっていそうだ。日本庭園とかもそうだけど、自然の要素を取り入れた人工物を、混合資本Mixed capitalなどと呼べるかもしれない。

一つ気を付けるべき点は、私たちが求める自然って、必ずしも自然そのものではなくて、お手軽に気を紛らわしてくれる、都会からアクセスしやすい安全なものだったりする。それが一概に悪いとは言えないけど、気候変動や大気汚染や生物多様性など、本当に重要な環境問題において守るべき自然とは違う次元であることには注意。

リスク回避と不平等回避の起源、マインドフルネス

今回はちょっとジャーゴンばかりですみません。心理学者亀田達也らの実験では、自分自身のギャンブルにおいても、他者どうしの分配においても、マキシミンと功利主義をウェイト付けした準マキシミンの効用関数が最もフィットしたという(平均分散型やCRRA型に比較して)。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2020/01/pdf/028-038.pdf

しかも、ギャンブルにおいても分配においても、人によってウェイトは同じ傾向がみられたという。すなわち自分のギャンブルでリスクをとる人は、マキシミンのウェイトが低く、社会の中で最悪の人の状態への関心が薄い。逆に自分のギャンブルでリスクを避ける人は、マキシミンのウェイトが高く、社会的に最悪な状態を気に掛けやすい。

さらにfMRIの画像を見ると、「未来・あちら」を考えているときに活発化する脳の分野はどの人でも同じだったという。

リスク回避と不平等回避の起源

これはいろいろ興味深い。地球温暖化対策の割引率の最近の研究では、不確実性も不平等も、数学的に同じ扱いがされている。そもそも限界効用の弾力性は相対的リスク回避度とも、不平等回避度とも解釈される(ほかに異時点間の消費の代替の弾力性などの解釈もある)。

ハルサニやロールズが提起した無知のベールに包まれていると、自分も最悪の状態になっていたかもしれないという想像力から、自分自身のリスクを避ける傾向と恵まれない他者への思いが必然的に重なっていくことは、日常生活レベルでも十分理解できる。

リスク回避と不平等回避は、単純に数学的・哲学的な扱いが同じというだけでなく、神経、進化的な根拠が同じ可能性が高いというのは大変面白い。

リスクや不平等への思いは必要だけど、日常では目の前のことに集中しよう

マインドフルネスのプラクティスでは、「今・ここ」に意識を集中することが教えられる。逆に言うと「未来・あちら」を考えるのは、不安を高めることになる。社会や自分にとって最悪の状況を想定することは、メンタル的には不安をもたらすが、長期的な進化や生き残りのためには必須だったということだ。これは大きなディレンマかもしれない。

スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』を読んでも感じたのは、メディアやインテリ層に蔓延する将来悲観論や反知性主義は、悪いシナリオを考えすぎて、世界が良くなっている面のほうが大きいという認識とのバランスが崩れてしまっているということ。

結論として、最悪の状況を想定はするんだけど、それが日々の思考や感情や判断を邪魔してはいけない。この緊張関係の中で、というか両者のバランスをとるうまい方法を、社会や個人が模索し続けることになるだろう。

椿姫その2:デュマフィスによる原作

先述のようにオペラ「椿姫」を見る機会があったのだが、ストーリー的にいくつも謎が残ったこともあり、手に取ったのが本書。

椿姫 (光文社古典新訳文庫)

椿姫 (光文社古典新訳文庫)

オペラでは、小説後半部分に重点が置かれており、馴れ初めやアルマン(オペラではアルフレード)のうじうじした嫉妬などはかなりはしょられていることがわかった。

でもこうした、なかなか人には相談できないような嫉妬や後悔などのネガティブ感情や、マルグリットの家と劇場とを行ったり来たりするしょうもない言動の一つ一つも描かれていることが、かえって人間くさくて共感を呼ぶのかもしれない。アルマンは、付き合い始めてたった2日で、お金のために老伯爵を家に入れたというだけで、嫉妬で別れを切り出すほどだ。とは言え彼女の言動に一喜一憂し、意識過剰で独りよがりなアルマンに、私などの小人物は(もちろん相手は高級娼婦などではないが)、ひそかに、あぁ自分だけじゃないんだとちょっと安心する。そしてそう感じるのがおそらく私だけではないからこそ、普遍性を持つのだと思う。

しかしいくら当代一の美女とは言え、明らかに先がない恋愛に、弁護士資格もあるようなインテリがなぜ入れこんでしまうのか?これに関して彼女の友人プリュダンスは全くの正論を展開する。曰く、アルマンとの関係に気づいたら、老伯爵などパトロンはどちらかの関係を選ぶよう迫るだろう。そうしてマルグリットを社交界から引きはがしたら、彼女は生活できなくなる。時がたてば、不誠実な男なら彼女を見捨てるだろうし、誠実な男なら、彼女に同じ生活水準を保証するために自分自身を不幸にしてしまう、と警告する。しかし…恋は盲目ですな。

マルグリットは、男女関係のみならず友人プリュダンスに対しても、自分の心を率直に言えないと孤独を告白する。一見、友人が自分を大事にしてくれるようでもそれは相手の虚栄心からであり、自分に対する真の敬意ではないという。何という孤独!

その一方で、耳が痛い思いもする。私たちは友人などを大事にしているつもりでも、自分にとっての飾りとして大事にしているだけでは?そこに相手に対する本当の敬意はあるか?そう考えてみると、アルマンとマルグリットは、たとえ一瞬であっても、エーリッヒ・フロムの言う「能動的な愛」やハリー・フランクファートの言う「相手への敬意」で生の喜びを得たともいえる。でも現実には、そこまですごい愛じゃなくていいから、一瞬じゃなくて長く続けることこそが重要だったりする。

本書を読んで解けた、オペラを見たときの謎

  • 一体アルマンは毎日プラプラして、何してんのか?→父親の収入からの仕送りで生活している。弁護士資格は取っているが、パリでは仕事にありつけなかった(もちろん未熟練労働の仕事はあっただろうが、そこまでして自分でお金を稼ぐ意味がないということだろう)。
  • 父親がヘリコプターのように息子に付きまとうが、母親の存在は?→すでに亡くなって、財産を残している。
  • アルマンにもそこそこお金がありそうなのに、マルグリットはなぜ財産処分までする必要があるのか?→パリでの派手な生活のためにお金がかかる。高級娼婦は数人のパトロンを抱えるものの、老パトロンではそうした需要の半分しか賄えない。しかもマルグリットにはかなりの借金がある。
  • 父親はマルグリットに息子と別れるよう依頼する前に、息子に直接頼めばいいのでは?→オペラでははしょられているが、実際そうした。でもかたくなに断られたので、息子に内緒でマルグリットのもとに行ったのだ。父がマルグリットに頼みに行ったことは、小説では最後に明かされる。
  • 小説でもオペラでも、父親は高潔な人物として描かれている。あの時代、息子と娘の幸せを本気で考えたら、やはりあのようにお願いするしかなかったのだろう。なおオペラでは、マルグリットは父に「我が娘」として認めてもらえることになっており、マルグリットの病床にも駆けつけて間に合うことができる。

解説によれば、1789年のフランス革命で否定されたはずの王政復古と、海外植民地からの利益が還流し、バブルの様相を呈する経済の中、ブルジョワは繁栄、道徳への回帰が叫ばれた。ちょうど、ヨーロッパでもアメリカでも、これから黄金の時代が始まる胎動が聞こえてきそうだ。

ロラン・バルトによると、これは相思相愛の物語ではなく、親にも世間にも承認されない二人が、神格化された父親からの承認を勝ち取る物語である。さらにオペラでは、マルグリットは自分の娘として認めてもらえるのだから、この側面はさらに強調されている。そして肉体的には間もなく死を迎えるが、魂は開放されて力を得るという成仏的なエンディングを迎える。

キャッシュカードと銀行の役割

こないだ自転車の車輪にカバンが巻き込まれてしまい、大ごとにならずにほっとしたけど、財布も挟まってしまった。で、ほとんど害はなかったけど、久々に取り出したキャッシュカードが割れてたので、再発行手続きに行って、思っていたより手間がかかってしまった。

カードの物理的な耐久性ってどれくらいなのだろう?今回のようなショックがなければもっと持ったはず。

よくよく考えてみたらこのカードは20年以上前に、アルバイト給料の振り込みのために1,000円で銀行口座を開設して以来のものだった!

当時は、アルバイト給料ですか?と係のおじさんに聞かれて、「はいそうです」(少額ですみませんねぇ)という内心だったが、それ以来のロイヤルぶりを考えると、悪くない顧客でしたね、おじさん。という感じです。でも当時よりはだいぶ銀行の立ち位置も変わってしまって、欧米では口座維持手数料がかかるくらいだから、必ずしも優良顧客ではないのかな。

そうこう考えていると、銀行業の本質って何なんだろうと考えざるを得ない。今は低金利なので、文字通り財布代わりのような存在になってしまっている。でもこれは銀行が金利をつけてくれないからと言って非難されるべきとも限らない。強いて言えば、「銀行はもっと有望なプロジェクトに融資して稼ぐべき」というのが正論ではある。また、中央銀行が多少なりとも操作できる金利は、無担保コール翌日物という極めて限られた銀行間金利だけだ。欧米や日本のような先進国では、少なくとも表面的には有望なプロジェクトが少なくなり、平均的な収益率が下がってきているから、銀行や金融政策だけを責めることはできない。

金融に限らずに言えば、タイラー・コーエンやロバート・ゴードンらの供給サイドによる長期停滞論に加え、資金需給を均衡させる均衡利子率が下がっているというローレンス・サマーズが収益率の低下の見方と整合的ではある。でも、本当に収益率は下がっているという証拠はない。

そんな時代に銀行は何をすべきか…フツーの日本人が期待する通常業務を粛々と続けつつ、他方では、有望な事業がない、収益率が下がっている、などとあきらめずに、意外なところでニーズを発見して有望なプロジェクトに投融資するチャレンジをあきらめないようにしよう。世の中から課題や問題がなくらないのは残念かもしれないが、それは何らかのニーズは常にあるということを意味しているのだから。

非常時こそナッジの活用を

www3.nhk.or.jp

マスク不足で、オイルショックのようにティッシュやトイレットペーパーが品薄状態とのこと。こうなったら、ウイルス流行収まるまでトイレットペーパーもティッシュも買わんぞ…と決意した次第。。

さてこういう時こそ、「85%のお客様はトイレットペーパーの購入を控えています」みたいな、社会規範ナッジが有効と思う。「店頭に山積みにしておく、2倍の発注を掛けているという張り紙をしておくなどすると効果がある」という専門家がいたが、もちろんそうだけど、それができていないから困っているわけであって。

「入荷未定」「お一人様一個まで」という張り紙や、「買占めが起きてます」というニュース報道は、教科書通りのネガティブナッジにしかなってない。

小売りや医療機関でも、こんな時こそ色々ナッジを工夫していただけると嬉しいのだけど。

行動経済学の使い方 (岩波新書)

行動経済学の使い方 (岩波新書)

椿姫その1:新国立劇場のオペラ、舞台美術が特に秀逸

www.nntt.jac.go.jp

人生でオペラを生で見るのは、おそらく2回目である。中学生くらいの頃、母に連れられて「カルメン」を観た。内容はあまり覚えていないのだが…。それ以来のオペラであるヴェルディ「椿姫」を新国立劇場で見る機会に恵まれた。

肝心の歌は、主役二人も(パパタナシュ、チェネス)、アルフレードの父役の日本人も良かった。実のところ、あまりオペラの巧拙がわからないので、将来的にはもう少しわかるようになっていたい。

舞台美術:鏡・台形・繭・ピアノ

それ以上に、舞台美術が全編を通して興味深かった。言葉で表現しづらいのだが、奥行きが台形のような構造になっており、斜辺の部分が全面鏡になっている。そのため奥行きがあるように見え、登場人物の斜め後ろ姿も反射して見えるようになっているのだ。舞台裏を隠す道具にもなっているのだろう。

第一幕は19世紀半ば、パリ上流階級の屋敷。第2幕、パリ郊外のヴィオレッタの自宅は、簡素だが上に小さなパラソルが浮いているのは、メリーポピンズのように自由になりたいというヴィオレッタの願望だろうか。特に第三幕のセットは印象的だ。病床にあるヴィオレッタに近づくアルフレードも父も医師も、薄いシルクのようなカーテンのような、繭のようなものの向こう側にいて、直接触れることができそうでできないもどかしさが絶妙だ。二者の生きる世界が違うこと、ヴィオレッタがもうすぐ旅立たなければいけない運命を暗示している。シルクにはそよ風が吹き続け、優しく膨らんだままである。

この劇中を通じて、アルフレードヴィオレッタもなぜかピアノの上に乗って感情表現をすることが多い。これは、エックスアンプロバンスの2011年公演のメイキング映画「椿姫ができるまで」と比較して、なるほどと感じた。エックスアンプロバンスの公演のように、野外の地べたにござを引いて主人公が寝っ転がっていると、観客が見下ろす格好になる。新国立劇場のようにピアノの上にいると、自然に観客と同じ目線で、しかも近くにいる感じがするのだ。また、都会的で知的な印象も与える。

ラストシーンの解釈

ラストも印象的だ。病床に臥したヴィオレッタは、アルフレードと父に見守られながら天寿を全うするという、ラ・ボエーム的な最後を予想していた。

しかし!ヴィオレッタは、丸くくりぬかれた円の外に出てきて、力を感じる、また生き返るようだと喜びに声を震わせて幕引きとなる。生の喜びに向けた前向きな終わり方が、意外で希望を感じさせた。

ロラン・バルトが指摘した、主人公は父親からの承認を得たというハッピーエンド的な解釈にも沿う(これは好みが分かれるかもしれない)。また、このオペラはヴィオレッタが見ている幻なのだという解釈もあるそうだが、なるほど、そんな解釈も可能なプロダクションだった。

アルフレード父子

アルフレードの父がヴィオレッタに息子と別れるよう迫るのは、現代の感覚ではなかなか理解できない…といいたいところだが、さしずめ現代のヘリコプター・ペアレントでもある。家柄を重視して結婚に反対すること自体は今もあるし、結局のところあまり時代は変わっていないのかもしれない。家柄的な恥の概念は、日本とあまり変わらないという感じもする。また、父系社会だからか、母親の存在はゼロである。それにしても、ヴィオレッタではなく、まずは実の息子に言えよ、という感じはする。

アルフレードの父も、娘の縁談に影響するからという理由で一方的に絶縁を迫るのはひどいとはいえ、財産処分をしたヴィオレッタを見直して、自分の娘として扱うようになる。しかし別れてほしいこと自体は取り消さないなど、なんだか一貫性がない感じもするが、基本的にはいい人として描かれている。非情だけれども自分の現実的な希望を優先する、世渡り上手な男性だったのかもしれない。

そしてアルフレードは、事情を知らずに自分を裏切ったものだと勘違いして、財産処分をしたヴィオレッタに、ギャンブルで儲けたお金を投げつけてしまう。そして女性を侮辱したと周囲から避難の嵐、猛省する。この辺り、未熟ではあるものの、失敗から学ぶ、道徳観はきちんとした若者として描かれている。

経済状況

そして経済的解釈としても面白い。そもそもアルフレードって仕事もせず何してんの?ヴィオレッタが財産処分しているということは、パリ郊外に移ったとはいえ、そこそこ生活は苦しいということだろう。ピケティの著書にあるように、所得の数倍の資産がないと、パリで利子生活を営むのはキツイのかもしれない。

アルフレードの妹が縁談しているということから、父親はそっちの結婚資金を準備しているのかもしれない。もしくは、アルフレードが父の望む結婚をするのであれば、資金提供もいとわないのかもしれない。

いずれにしても、アルフレードが(ギャンブルではなく)定職につけばいいようなものだが、生活のために仕事をするのは恥というような、中途半端な中流階級だったのだろうか。第1幕と第2幕との間にあるであろう、二人の蜜月、フェリーチェFeliceな生活が全く描かれないので、原作を読むしかない。

読書メモ:トップダウン理論で公共政策を切れない理由

トップダウン式に哲学理論から始めるのではなく、ボトムアップ式に、まず公共政策論争で何が対立しているのかを理解し、それぞれの立場がどのような哲学理論で「説明」できそうか(「証明」ではない!)を考えるというスタンスが本書全体で貫かれている。この一貫性と、動物実験やドラッグといった各問題における考え方が示されている具体性が本書の魅力であり、誠実な態度に信頼が持てる。なんとなく、哲学で理論武装すればスッキリ問題が切れるのではないかと期待する私のような怠け者の期待を見事に裏切ってくれる。そのため、スッキリ感ではなくモヤモヤ感が残れば本書をきちんと読んだといえる。ただし、個別事例への適用以外にそんなに新しさはなく、既にキャス・サンスティーンが一連の本で主張しているような内容に、アマルティア・セン的アプローチをとったという感じだ。

トップダウンの理論からアプローチするとなぜまずいのか

ではトップダウン式に一つの理論を適用するとなぜおかしなことになるのか。多くの人は、帰結主義功利主義的な立場も、義務論・絶対主義的な立場も両方必要と考えるように、どの理論にも一理があるからだろう。

たとえば、動物の権利理論によれば、動物が痛みを感じるなら動物実験は金輪際ダメということになるが、果たして動物の権利は他のもろもろよりも大事だろうか。動物実験をすることによるメリットがとても大きいなら、そこで権利だけを絶対視するのはおかしいだろう。

(ちなみに人間が他の動物よりも優れているかもしれない理由の候補として、感覚Sentience、自律Autonomy、善Good、能力Capability to flourish、声明を持つPossession of a life、社会性Sociabilityの5つが指摘されている。)

中絶についても、それぞれの立場を明確化するために、「女性の権利vs胎児の権利」と単純化されることが多いが、ほとんどの人はどちらの権利も重要だと考えている。やはり、理論同士の対立ではないのだ。

また別の例として、安全への投資と命の価値がある。1年に事故死する人を5人減らせる安全装置への投資に何億円までかけてもよいだろうか?功利主義では答えが出せるが、義務論では何億円であっても投資すべき、答えは無限大となる。ここで、功利主義では、命の値段が分析に使われる(アメリカでは9億円くらい)。人の命に値段をつけることには嫌悪感を覚える人が大半だ。でも分析に使われる統計的生命価値(VSL)は、命の価値そのものではなく、日常生活で私たちが「安全を買う」のと同じように、リスクを減らすことに対する対価である。1000人のうち1人死ぬのかもしれないし、1000人全員死ぬ可能性もなくはない。

1人の命はいくら出しても変えないのだから、何百億円であっても安全装置の開発に投資すべきという義務論を尊重しつつも、同じお金を使ってもっと多くの命を救う他の方法があるのでは、という考え方に多くの人は納得するだろう。イギリスでは鉄道事故の後、鉄道を止めてくまなく検査したがために、多くの人が自動車を代替手段として使ったために、社会全体としては死亡数が増えてしまった。

他の例として、JSミルのリベラリズム理論である「国家の介入は他者への危害がある時だけ」をギャンブル規制に適用するとやはり変なことになる。ギャンブルそれ自体が悪なのか、ギャンブルの帰結が悪なのか、他者・家族への危害が悪なのか、こうしたことを一つ一つ整理していく必要がある。またギャンブルの機会が増えたからと言って、依存症が増えるとも限らないという指摘は、哲学議論においてもファクトやエビデンスが重要であることを思い出させてくれる。

機会の平等、結果の平等、財と潜在能力

Dworkin (1981)は、ウェルフェアの平等とリソースの平等では後者が重要とし、さらに資源は外的資源(お金など)と内的資源(能力など)に分かれるとした。しかし障害についての分析は行っておらず、社会が障害を作るというソーシャルモデルではなく障害そのものを見るメディカルモデルを想定しているようだ。主観的福祉の平等の立場をとると、先進国では障がい者の満足度が低いわけではないので、何もしないのが良いことになってしまう!しかも世の中には他にもいろんな不平等がある。ではどうしたらよいか?完全な不平等を目指したりすべての不正義を取り除いたりすることはできないが、今の不正義を少しでも改善する、少なくとも悪化はさせないというプラグマティックな平等を目指すべき、という。

これは、機会の平等か、結果の平等かという、米国のアファーマティブ・アクションをめぐる論争にも近い。もっと言うと、ジョン・ロールズアマルティア・センらが作ってきた、基本財・潜在能力・ウェルフェアという3段階の理論に沿った議論だ。

著者本人も最終章でその影響を認めているが、アマルティア・セン『正義のアイディア』やバーナード・ウィリアムズの不完全社会における漸進主義である。理想的な社会でのべき論を振りかざすのではなく、現実の不正義を認めたうえで、じゃあこの不正義が今よりも悪化しないようにするにはどうしたらいいだろう?という考え方だ。

理論と政策とを行ったり来たりしつつ、インプリケーションから逆に理論を選ぶこともある。障碍者への現金の移転よりも地位の向上が望ましいと思うなら、リソースの理論ではなく潜在能力の理論のほうがもっともらしい。これもまたアマルティア・センの反照的均衡Reflective equilibriumである。

結局のところ、実践あるのみ?

このようにして考えると、様々な意見に耳を傾け、それを支えてくれそうな哲学理論と結びつけるという思考訓練をしつつ、公共政策においては最善の理論などないという前提に立ち、結局最終的には、費用便益分析やその他の分析を使って不正義を少しでも減らせる方法を議論していくしかないように思える。帰結主義と義務論とのバランス感覚が必要だが、どこでバランスをとるかということについては、時と場合によるとしか言いようがない。でもそのバランスのとり方こそが知りたいことだったりする。あとは実践あるのみということなのだろうか。

その他

手っ取り早い分析用具は期待しない方がよいが、ツールとしては、道徳問題回避のための3R(Russel and Burch 1959)が極めて常識的ではあるが便利だろう。Refinement改善、Reduction削減、Replacement置き換え、である。

Hare (1952)は、信念と行動とは一致すべきと論じた。実生活でこのように考えることも多いと思うが、筆者はこれをそのまま動物実験など現代の問題にあてはめるのはあまりに教条主義的だという。たとえば奴隷制が存在した時代、奴隷を使っていた人も、この制度に何の問題もないと考え、なんの後ろめたさも感じていなかったわけではなかったろうと述べる。

また、アルコール(合法)とエクスタシー(違法)に対する政策が矛盾しているように見えても、問題ない。哲学理論ではなく、公共政策においては、一貫性は必ずしも美徳ではないから、と言う。これはボトムアップでアプローチするから当然といえば当然である。

各章の要約が有益。読み物的に敷居を低くしているともいえるが、もっと教科書的な本も欲しいと思った(と思ったら教科書があるんですね。失礼しました)。なお、日本語訳はやや固い。また、〔 〕で訳者による補足が頻繁に行われ、たとえば文末の〔からである〕などの補足もある。これは翻訳への自信のなさとも解釈されかねない。

ちなみに原題は、『倫理と公共政策』である。邦訳では、一貫して「哲学」の語が当てられているが、「倫理」のほうが敷居が低く感じられると思うのだが、いかがだろうか。