椿姫その1:新国立劇場のオペラ、舞台美術が特に秀逸

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人生でオペラを生で見るのは、おそらく2回目である。中学生くらいの頃、母に連れられて「カルメン」を観た。内容はあまり覚えていないのだが…。それ以来のオペラであるヴェルディ「椿姫」を新国立劇場で見る機会に恵まれた。

肝心の歌は、主役二人も(パパタナシュ、チェネス)、アルフレードの父役の日本人も良かった。実のところ、あまりオペラの巧拙がわからないので、将来的にはもう少しわかるようになっていたい。

舞台美術:鏡・台形・繭・ピアノ

それ以上に、舞台美術が全編を通して興味深かった。言葉で表現しづらいのだが、奥行きが台形のような構造になっており、斜辺の部分が全面鏡になっている。そのため奥行きがあるように見え、登場人物の斜め後ろ姿も反射して見えるようになっているのだ。舞台裏を隠す道具にもなっているのだろう。

第一幕は19世紀半ば、パリ上流階級の屋敷。第2幕、パリ郊外のヴィオレッタの自宅は、簡素だが上に小さなパラソルが浮いているのは、メリーポピンズのように自由になりたいというヴィオレッタの願望だろうか。特に第三幕のセットは印象的だ。病床にあるヴィオレッタに近づくアルフレードも父も医師も、薄いシルクのようなカーテンのような、繭のようなものの向こう側にいて、直接触れることができそうでできないもどかしさが絶妙だ。二者の生きる世界が違うこと、ヴィオレッタがもうすぐ旅立たなければいけない運命を暗示している。シルクにはそよ風が吹き続け、優しく膨らんだままである。

この劇中を通じて、アルフレードヴィオレッタもなぜかピアノの上に乗って感情表現をすることが多い。これは、エックスアンプロバンスの2011年公演のメイキング映画「椿姫ができるまで」と比較して、なるほどと感じた。エックスアンプロバンスの公演のように、野外の地べたにござを引いて主人公が寝っ転がっていると、観客が見下ろす格好になる。新国立劇場のようにピアノの上にいると、自然に観客と同じ目線で、しかも近くにいる感じがするのだ。また、都会的で知的な印象も与える。

ラストシーンの解釈

ラストも印象的だ。病床に臥したヴィオレッタは、アルフレードと父に見守られながら天寿を全うするという、ラ・ボエーム的な最後を予想していた。

しかし!ヴィオレッタは、丸くくりぬかれた円の外に出てきて、力を感じる、また生き返るようだと喜びに声を震わせて幕引きとなる。生の喜びに向けた前向きな終わり方が、意外で希望を感じさせた。

ロラン・バルトが指摘した、主人公は父親からの承認を得たというハッピーエンド的な解釈にも沿う(これは好みが分かれるかもしれない)。また、このオペラはヴィオレッタが見ている幻なのだという解釈もあるそうだが、なるほど、そんな解釈も可能なプロダクションだった。

アルフレード父子

アルフレードの父がヴィオレッタに息子と別れるよう迫るのは、現代の感覚ではなかなか理解できない…といいたいところだが、さしずめ現代のヘリコプター・ペアレントでもある。家柄を重視して結婚に反対すること自体は今もあるし、結局のところあまり時代は変わっていないのかもしれない。家柄的な恥の概念は、日本とあまり変わらないという感じもする。また、父系社会だからか、母親の存在はゼロである。それにしても、ヴィオレッタではなく、まずは実の息子に言えよ、という感じはする。

アルフレードの父も、娘の縁談に影響するからという理由で一方的に絶縁を迫るのはひどいとはいえ、財産処分をしたヴィオレッタを見直して、自分の娘として扱うようになる。しかし別れてほしいこと自体は取り消さないなど、なんだか一貫性がない感じもするが、基本的にはいい人として描かれている。非情だけれども自分の現実的な希望を優先する、世渡り上手な男性だったのかもしれない。

そしてアルフレードは、事情を知らずに自分を裏切ったものだと勘違いして、財産処分をしたヴィオレッタに、ギャンブルで儲けたお金を投げつけてしまう。そして女性を侮辱したと周囲から避難の嵐、猛省する。この辺り、未熟ではあるものの、失敗から学ぶ、道徳観はきちんとした若者として描かれている。

経済状況

そして経済的解釈としても面白い。そもそもアルフレードって仕事もせず何してんの?ヴィオレッタが財産処分しているということは、パリ郊外に移ったとはいえ、そこそこ生活は苦しいということだろう。ピケティの著書にあるように、所得の数倍の資産がないと、パリで利子生活を営むのはキツイのかもしれない。

アルフレードの妹が縁談しているということから、父親はそっちの結婚資金を準備しているのかもしれない。もしくは、アルフレードが父の望む結婚をするのであれば、資金提供もいとわないのかもしれない。

いずれにしても、アルフレードが(ギャンブルではなく)定職につけばいいようなものだが、生活のために仕事をするのは恥というような、中途半端な中流階級だったのだろうか。第1幕と第2幕との間にあるであろう、二人の蜜月、フェリーチェFeliceな生活が全く描かれないので、原作を読むしかない。

読書メモ:トップダウン理論で公共政策を切れない理由

トップダウン式に哲学理論から始めるのではなく、ボトムアップ式に、まず公共政策論争で何が対立しているのかを理解し、それぞれの立場がどのような哲学理論で「説明」できそうか(「証明」ではない!)を考えるというスタンスが本書全体で貫かれている。この一貫性と、動物実験やドラッグといった各問題における考え方が示されている具体性が本書の魅力であり、誠実な態度に信頼が持てる。なんとなく、哲学で理論武装すればスッキリ問題が切れるのではないかと期待する私のような怠け者の期待を見事に裏切ってくれる。そのため、スッキリ感ではなくモヤモヤ感が残れば本書をきちんと読んだといえる。ただし、個別事例への適用以外にそんなに新しさはなく、既にキャス・サンスティーンが一連の本で主張しているような内容に、アマルティア・セン的アプローチをとったという感じだ。

トップダウンの理論からアプローチするとなぜまずいのか

ではトップダウン式に一つの理論を適用するとなぜおかしなことになるのか。多くの人は、帰結主義功利主義的な立場も、義務論・絶対主義的な立場も両方必要と考えるように、どの理論にも一理があるからだろう。

たとえば、動物の権利理論によれば、動物が痛みを感じるなら動物実験は金輪際ダメということになるが、果たして動物の権利は他のもろもろよりも大事だろうか。動物実験をすることによるメリットがとても大きいなら、そこで権利だけを絶対視するのはおかしいだろう。

(ちなみに人間が他の動物よりも優れているかもしれない理由の候補として、感覚Sentience、自律Autonomy、善Good、能力Capability to flourish、声明を持つPossession of a life、社会性Sociabilityの5つが指摘されている。)

中絶についても、それぞれの立場を明確化するために、「女性の権利vs胎児の権利」と単純化されることが多いが、ほとんどの人はどちらの権利も重要だと考えている。やはり、理論同士の対立ではないのだ。

また別の例として、安全への投資と命の価値がある。1年に事故死する人を5人減らせる安全装置への投資に何億円までかけてもよいだろうか?功利主義では答えが出せるが、義務論では何億円であっても投資すべき、答えは無限大となる。ここで、功利主義では、命の値段が分析に使われる(アメリカでは9億円くらい)。人の命に値段をつけることには嫌悪感を覚える人が大半だ。でも分析に使われる統計的生命価値(VSL)は、命の価値そのものではなく、日常生活で私たちが「安全を買う」のと同じように、リスクを減らすことに対する対価である。1000人のうち1人死ぬのかもしれないし、1000人全員死ぬ可能性もなくはない。

1人の命はいくら出しても変えないのだから、何百億円であっても安全装置の開発に投資すべきという義務論を尊重しつつも、同じお金を使ってもっと多くの命を救う他の方法があるのでは、という考え方に多くの人は納得するだろう。イギリスでは鉄道事故の後、鉄道を止めてくまなく検査したがために、多くの人が自動車を代替手段として使ったために、社会全体としては死亡数が増えてしまった。

他の例として、JSミルのリベラリズム理論である「国家の介入は他者への危害がある時だけ」をギャンブル規制に適用するとやはり変なことになる。ギャンブルそれ自体が悪なのか、ギャンブルの帰結が悪なのか、他者・家族への危害が悪なのか、こうしたことを一つ一つ整理していく必要がある。またギャンブルの機会が増えたからと言って、依存症が増えるとも限らないという指摘は、哲学議論においてもファクトやエビデンスが重要であることを思い出させてくれる。

機会の平等、結果の平等、財と潜在能力

Dworkin (1981)は、ウェルフェアの平等とリソースの平等では後者が重要とし、さらに資源は外的資源(お金など)と内的資源(能力など)に分かれるとした。しかし障害についての分析は行っておらず、社会が障害を作るというソーシャルモデルではなく障害そのものを見るメディカルモデルを想定しているようだ。主観的福祉の平等の立場をとると、先進国では障がい者の満足度が低いわけではないので、何もしないのが良いことになってしまう!しかも世の中には他にもいろんな不平等がある。ではどうしたらよいか?完全な不平等を目指したりすべての不正義を取り除いたりすることはできないが、今の不正義を少しでも改善する、少なくとも悪化はさせないというプラグマティックな平等を目指すべき、という。

これは、機会の平等か、結果の平等かという、米国のアファーマティブ・アクションをめぐる論争にも近い。もっと言うと、ジョン・ロールズアマルティア・センらが作ってきた、基本財・潜在能力・ウェルフェアという3段階の理論に沿った議論だ。

著者本人も最終章でその影響を認めているが、アマルティア・セン『正義のアイディア』やバーナード・ウィリアムズの不完全社会における漸進主義である。理想的な社会でのべき論を振りかざすのではなく、現実の不正義を認めたうえで、じゃあこの不正義が今よりも悪化しないようにするにはどうしたらいいだろう?という考え方だ。

理論と政策とを行ったり来たりしつつ、インプリケーションから逆に理論を選ぶこともある。障碍者への現金の移転よりも地位の向上が望ましいと思うなら、リソースの理論ではなく潜在能力の理論のほうがもっともらしい。これもまたアマルティア・センの反照的均衡Reflective equilibriumである。

結局のところ、実践あるのみ?

このようにして考えると、様々な意見に耳を傾け、それを支えてくれそうな哲学理論と結びつけるという思考訓練をしつつ、公共政策においては最善の理論などないという前提に立ち、結局最終的には、費用便益分析やその他の分析を使って不正義を少しでも減らせる方法を議論していくしかないように思える。帰結主義と義務論とのバランス感覚が必要だが、どこでバランスをとるかということについては、時と場合によるとしか言いようがない。でもそのバランスのとり方こそが知りたいことだったりする。あとは実践あるのみということなのだろうか。

その他

手っ取り早い分析用具は期待しない方がよいが、ツールとしては、道徳問題回避のための3R(Russel and Burch 1959)が極めて常識的ではあるが便利だろう。Refinement改善、Reduction削減、Replacement置き換え、である。

Hare (1952)は、信念と行動とは一致すべきと論じた。実生活でこのように考えることも多いと思うが、筆者はこれをそのまま動物実験など現代の問題にあてはめるのはあまりに教条主義的だという。たとえば奴隷制が存在した時代、奴隷を使っていた人も、この制度に何の問題もないと考え、なんの後ろめたさも感じていなかったわけではなかったろうと述べる。

また、アルコール(合法)とエクスタシー(違法)に対する政策が矛盾しているように見えても、問題ない。哲学理論ではなく、公共政策においては、一貫性は必ずしも美徳ではないから、と言う。これはボトムアップでアプローチするから当然といえば当然である。

各章の要約が有益。読み物的に敷居を低くしているともいえるが、もっと教科書的な本も欲しいと思った(と思ったら教科書があるんですね。失礼しました)。なお、日本語訳はやや固い。また、〔 〕で訳者による補足が頻繁に行われ、たとえば文末の〔からである〕などの補足もある。これは翻訳への自信のなさとも解釈されかねない。

ちなみに原題は、『倫理と公共政策』である。邦訳では、一貫して「哲学」の語が当てられているが、「倫理」のほうが敷居が低く感じられると思うのだが、いかがだろうか。

旭川のお菓子

お正月の家族との会話に、旭川のお菓子屋さんが出てきた。

古谷製菓のミルクキャラメル、残念ながら会社はもう存在しないようだ。

sapporo-jouhoukan.jp

創業者、滋賀県野洲市の出身ながら、北海道に単身乗り込んで、明治・森永に匹敵するブランドに仕立て上げたとは。

しかし話には続きがあって、創業者の孫の古谷勝さんという人が1988年に始めたショコラティエ マサールというお店は、ひ孫の古谷健さんという方が、代表取締役を務めているようだ。

shindoken.com

浅岡の旭豆も、残念ながら数年前に製造を取りやめているようだが、もう一社が製造を続けているとのこと。

ノスタルジックになり過ぎるのは問題だけど、こうして細々と受け継がれているものがあることに根源的な喜びを覚えるのはなぜだろう。ちょっと年取ったからかな。

いずれにしても両方とも、早くチェックしなくては!
北海道にはチェックすべきものが多すぎて汗。

シンガポールと福岡のアリス展

今夏にシンガポールのアートサイエンス・ミュージアムで見たAlice in Wonderland展と、冬に福岡市美術館不思議の国のアリス展をやっていたので、比較しながらメモ。。

シンガポールのアリス

まずシンガポール。こちらは結構子供向けで、いくつもあるドアの中から選んで開けて色んな部屋を巡る仕組み。せっかく大小の扉の小部屋を作っているのだから、大きくなったり小さくなったりする仕掛けを作っても良かったのでは。それ以前に、本に出てくるワードプレイの意味を解説するとか、原作に近い仕掛けのほうが好みかな。

マッド・ティーパーティーのインスタレーションも、期待したのだが、テーブルの上に並んでいるお皿に映像を映し出すというだけだった。実際にお茶を出してみるとか、ヤマネが出てくるとかのほうが原作に近くなったのに。

過去の映画化の紹介は参考になった。1933年の作品の、巨大化したアリスがヒトをつまみ出すシーンとか。これは、同じミュージアム内の別の展示Floating Utopiaで見た、巨大化したバニーが何だかかわいくなくて不気味」という作品(鳥光桃代さん)を思い出させる!体が大きくなったり小さくなったりというのは、アリスがオリジナルではないかもしれないが、影響力は大きそう。

展示の最後、アリスの作品とアリスにインスパイアされた作品を編集したビデオAliceographyが良かった。忠実な映画化から、ディズニー、日本のアニメ、そしてきゃりーぱみゅぱみゅまで!

福岡のアリス

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リニューアル後の福岡市美術館へ。個人的にはこちらの方が変なハンズオン的要素がなくて良かった。

珍しい初版本とか原画。にしてもアリス初版は明治維新のころだから、欧米そして日本でも黄金の成長期が始まるころと重なる。『オズの魔法使い』と同じくらいかと思ったら、40年も先立っていたとは。

それにしても、『オズの魔法使い』がまだ普通に思えるほど、ぶっ飛んだ話である。夢を見ている間に冒険に出るというのは今からすると王道だが、わけのわからないことばかり言って全然会話が成立しない変てこお茶会とか、女王が次々に処刑したので誰もいなくなってしまいましたとか、いわゆるシュールな笑いで、ザ・児童文学という感じではない。もちろん、そこがいいのだけど。ジョセフ・キャンベルの言う神話類型に近いようで遠く、いろいろハチャメチャだからこそ、今でもインスパイアされた作品が出てくるのだろう。

原作を以前読んだのは10年くらい前(そのあと黒姫高原アリス記念館みたいなところ黒姫童話館に行った)。『鏡の国のアリス』はきちんと読んだことがなかったが、ハンプティダンプティって鏡の国のアリスの話だったんだ!不思議の国がトランプ、鏡の国はチェスだそうだ。ちなみに、西田ひかる後藤久美子のテレビの国のアリスというのもあったな…。

ルイス・キャロルことチャールズ・ドッジソンはオックスフォード大学の数学者だったので、オックスフォードでは毎年アリス祭りがあるそうな。エビダンス見てみたい!

最初は絵もルイス・キャロルが描くはずだったが、時の評論家ジョン・ラスキンにやめておけと言われて紹介されたのがジョン・テニエルJohn Tennielだった。これが結果として大成功。やはりアリスと言えばあの困り顔である。でもオックスフォード図書館員が言うように、ルイスキャロル自身の挿絵原案もかなりジョン・テニエルのそれに近いものだったのだ。

シンガポールの展示では、ディズニーからきゃりーぱみゅぱみゅに至るまで影響を受けたあらゆるポップス文化をリミックスしたビデオ作品があったが、今回展示されているインスピレーションを受けた作品も良かった。草間彌生のアリスは、意外と親和性が高くて、描きおろしではなく第三者が既存の作品を組み合わせて作ったようにも見えたがどうなのだろう?

個人的なヒットは、チェシャ猫いもむしCheshire CAT-erpillerだ。はらぺこあおむしのまま、表情はチェシャ猫になってる!しかもこのうまいダジャレ・ネーミング!これがエリックカールによる昨年の作品と言うから驚き。顔をチェシャ猫に挿げ替えることで、神出鬼没性を加味したはらぺこあおむしになっている。今風に言えば、コラボというかマッシュアップだ。

サルバドール・ダリの文字通りシュールな絵本やウラジミール・クラヴィヨ=テレプネフによる写真もよかった。

ついでに、リニューアル後の常設展

「虚ろなる母」は、遠くから見るとでっかい黒たまに見えるものが、近づいていくとじつは藍色の空洞になっていて、しかも厚みのある和紙のような外観の作品。東洋的な宇宙観を感じる。しかも母なのに中は空洞というのは、女性性だけでなくすべてを受け入れる無限の懐の深さを感じる。作家はアニッシュ・カプーアというインドの人らしい。

戸谷氏による木の彫刻を30本並べた作品が壮観。1本のときと違って、アクロポリスの宮殿の柱のようにも、雪国の白樺のようにも見えてくるから不思議だ。

日本で初めて磁器の焼成に成功した有田の染付師、柿右衛門の作品はやはり素晴らしい。カンボジアベトナムの磁器も珍しい。当地の博物館などでも、あまり磁器を観た覚えはない。

ゆったりした空間に、ちょっととがった学芸員コメントも添えられていて、独自色と親しみを出そうとしているのが良かった。

桜を見る会と平等について

日本国内のニュースは、かなりどうでもいいことに時間が割かれているが、「桜を見る会」もしかり。これが政権の腐敗した構造的性質を表すのであればまだしも、野党が政府与党のあら捜しを必死にしている一環という印象をぬぐえない。とある野党首脳コメント「安倍政権には桜のように散っていただいて」、うまいことを言ったなぁと悦に入っている暇があったら、もっと生産的な政策議論で勝負してほしい。

さて、とあるラジオ番組で、首都大学東京憲法学者木村草太氏のコメントが紹介されていて気になった。氏いわく、「日本国憲法では何人たりとも合理的でない理由で差別されてはならないと定められている。だから、功労のあった人でもないのに、安倍首相の友人だからという理由で招待されるなんてけしからん、平等が担保されていない」という趣旨のことを述べておられた(違ってたらすみません)。

なんだかとてもくだらない理屈だなーと感じた。日本国憲法が保障する法の下の平等って、自分が学びたいと思えば大学でも大学院でも進学できるとか、毎日ひもじい思いをせずに生活できるとか、不安があったら相談できる人がいるとか、体に障害があるけど恋愛できるとか、ネットで自由に発言できるとか、病気になったら病院に行けるとか、そういうことなんじゃないの?より一般化すると、それこそ日本国憲法を引用すれば、最低限の健康的で文化的な生活を営みつつ、自分がやりたいことを目指せるような権利が保障されていることなんじゃないの?5000円払って首相のパーチ―に行く権利の平等なんて、こっちから願い下げだわ。

各種世論調査によれば、桜を見る会への国民の反発は強そうだ。でもこの感情が、「○○子ちゃんだけ誕生日会に呼ばれて」的な、どうでもいい不平等?感情に基づいているのだとしたら、なんだかとても残念だ。

フランクファート『不平等論』で論じられているように、一義的には平等そのものより、一人一人が充足した生活を送れているかどうかが重要だ。さらに、人が気にするのは、平等そのものよりも敬意をもって扱われたかどうかだ。その基準に立ったとしても、桜を見る会に招待されなかったから自分には敬意を払われていないなどと感じる人がいるのだろうか?

不平等論: 格差は悪なのか? (単行本)

不平等論: 格差は悪なのか? (単行本)

個人的には、首相は一応大変な仕事をしているんだから、お花見会くらいの楽しみはあっていいと思う(ちょっと甘すぎかな?)。でも桜の会を批判したいのであれば、あくまで政治家からの便宜供与が行われることによる不正義や非効率性という観点から議論されるべき。前も言ったとおり、この規模であれば問題ないと思うが、さらに大きな規模の腐敗や構造的な問題につながるのであれば、ここできちんと正すべきだと思う。

塩田千春展:人間関係としての赤い糸、生死のあいまいな境界

昨年スウェーデンに行った時に、とある美術館で企画展を偶然見て、初めて知った。そのときは小一時間しかいられず駆け足になってしまい、また展示内容もだいぶ異なるようなので、改めて訪問。次期館長の片岡真実氏がチーフ・キュレーター。

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人間関係としての赤い糸

赤糸が織りなす世界に圧倒される。糸が絡み合い、結び付き、ほつれてもつれて…という動きをする赤い糸は人間関係を表しているという。社会学ではウィーク・タイズと言って、強いきずなではなく弱いつながりにもメリットがあることが知られているが、この蜘蛛の巣のような赤い糸はすぐに切れてしまいそうだけど一応つながっているウィーク・タイズなのかもしれない。

一方で、無限に広がるウェブはその名の通りインターネットのようでもあるし、どこかが切れても必ず他に迂回ルートがあるという意味で、蜘蛛の巣のように実は強固でレジリエントなのかもしれない。

そしてこの赤い糸がどこから来ているかというと、発生源は一つではない。でもフロアに置かれた舟は、彼女の作品に登場するおなじみのモチーフであるが、草間彌生が強迫観念に駆られて作ったファルスの舟を思い起こす。一部の人にとって、舟(船ではない)は人間関係や意識の生まれる場所を象徴するのだろうか。草間彌生といえば、水玉模様の無限の網のような連続性と拡張性も、塩田の赤い糸に似ている。

人間関係としての糸といえば、「君の名は。」でも紹介された、日本古来の組紐が作り出す縁を表しているともいえる。

そしてこうした糸は、蜘蛛の糸のように張り巡らされるだけでなく、蚕が作り出す繭にもなりうる。糸に守られたベッドが作られ、そこで人が安らかに眠るというインスタレーションは、居場所に困る私たちのためにあるようだ。そういえば、遺伝子組み換えの蚕に蛍光色の繭を編ませていたのはスプツニ子!だったっけ。

焦げたピアノ

そしてこれまた小さい時の記憶で、近所が火事になってピアノが焼けてしまい、その匂いで自分の声が曇っていくのを感じたという。「ピアノの森」で、打ち捨てられたピアノに雷が落ちて激しく燃えてしまったというエピソードを思い出す。単純に楽器が使えなくなってしまうという以上の喪失があるのかもしれない。でも焼け焦げた黒は、作家が宇宙を表すのに使う色だ。破壊と再生、死と生まれ変わりを暗示しているのかもしれない。

生と死:あいまいな境界

生と死も一大テーマだ。祖母の墓で草むしりをして、祖母の命につながっているような畏怖を感じたことが原体験になっている。卵巣がんの経験を経て、Perhaps death does not involve a transformation into nothingness and oblivion, but dissolution.非連続に死という状態にジャンプするのではなく、生と死のあいまいな境界を徐々に動いていき、最後は宇宙全体に溶け込む、と考えることで恐怖がなくなったと述べている。こういう死生観や自然観は、アイスランドで自然との一体感を感じたり、北フランスでの演習でアイデンティティ危機に苦しんで裏山を全裸で転げまわったりした体験から生まれてきたのかもしれない。

実存の危機を超えて

塩田は、若いころに油絵をはやばやとあきらめた。技術的な問題ではなく、中身のなさLack of contentを感じてむなしくなってしまったそうだ。自分は何をやっているんだというむなしさに苦しむ自分をストレートに表現した写真がある。午前中は悶えて、夕方4時ごろにやっと動き出す。引きこもりの人が呟いているかのような、ありがちな実存の危機。でもそれを超えたところで創作の意欲がわいてくるという。難解なようで、私たち誰もが感じる危機を率直に語ってくれる親しみやすさがあるし、自分もがんばろうと思える。

最後は、塩田が住むベルリンでドイツの子どもたちに魂について自由に語ってもらうというビデオだ。子供たちが語る、素直で、様々な、しばしば深遠で興味深い発言に驚かされた。

道中の安全を願ってくれるバスドライバー

出張で羽田空港に向かうとき、空港に向かうバスで聞いたアナウンス。
「皆様の道中の安全は、皆様のご家族そして私たちの最大の願いであります」
すげぇ。
そんなことをちょっとでも思ってくれてる人がいたんだ。
別に棒読みするでもなく、降車の際にも「どうぞお気をつけて」と声掛けくださった。

もちろん、このドライバーにとっては、定型句なのかもしれない。
それに次回以降同じセリフを聞いたら、新鮮さが薄れていくのもわかっている
(けれども、それは聞く側にも問題があって、こちらがその意味をきちんとかみしめるべきなのだ)。

そんなに気が進まない出張だったので、これを聞けただけでも来て良かった(まだ飛び立ってすらいないが(-_-;)。
「出張続きで疲れたなー」と不貞腐れていた自分が恥ずかしくなった。

運転士さん、お名前を失念してしまったけど、ありがとうございます。
安全に気を付けて、ちゃんと仕事してきますからね。
私たち出張者や旅行客は、あなたのような、現場の最前線で頑張ってらっしゃる一人一人に支えられているのです。