「イケムラレイコ 土と星 Our Planet」展 自然の一部である人間の表情について

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最初はあまり何も感じなかったのだが、部屋を先に進むにしたがって、だんだん引き込まれた。

少女というテーマでは、フェミニズム的な抗議でもなく、男性がこうあってほしいという勝手な理想の少女像では決してない。なぜかうつ伏せや仰向けになっていることが多いけど、自分は生きているという実存的な少女が描かれる。ぼんやりとした赤い背景の中にうつ伏せになって、おそらく前に進もうとしている少女。「みこ」というネコ?を抱いたままなぜかうつ伏せになっている少女のテラコッタ。最近のシルクスクリーン印刷による「アマゾン」にも通じる女性像だ。

Fujiface:富士山に溶け込む人の顔。森林や火山に畏敬の念を示し、神が宿ると考えてきた私たち日本人にとってしっくりくる組み合わせだ。タイのアユタヤで、仏の頭部が根っこに絡みついている木を思い出した。個人的にはもっと安らかな表情を見たかったが、安らかでも無表情でもなく、亡くなった人の表情のようだ。でもそれが不気味さをもたらすことはない。このような悠久の大自然の中では、人の一生などほんの一瞬であり、時空を超えた、あるいは人類の枠をも超えた表情に映る。あるいは、自然と一体になりたいという願望を象徴しているのかもしれない。

東日本大震災の後に、滋賀県立陶芸の森にて何人もの協力を得て作られたというウサギ観音。多くのアーティストが、自分にできることは何かともがいた自然災害。祈るとは何かということと対峙したのだろう。中が空洞になっているのは包容力を表すという。なぜウサギなのかはわからないが、作家にとって、日本人の心を包み込んで平和をもたらしてくれるシンボルのような存在なのかもしれない。やはりウサギは仏のような安らかな表情ではないけれども、かと言って無表情で突き放したような印象は与えない。何というか素朴な…これも一種のやさしさなのかもしれない。

木を愛しすぎて、ほぼ一体化したような彫刻。幼いころに木登りをするなど親しんできた人にとっては、ごく自然な表現だろう。このようにイケムラの作品は、一見突飛なのだが、かえって自然の中のごく小さな一部でしかない我々を描写しているからこそ、不快感をもよおすことはなく、新鮮ですがすがしいのである。

インタビューで、スイスのドイツ語で流ちょうに答えるイケムラ氏。目をぱっちりと見開き、やはり若くから欧米で活躍した草間彌生さんを彷彿とさせる鋭さを感じる。世界に何かを与えることはできたか、それとも世界は関係なくてアートをやっているだけなのか?という質問に対し、深淵をのぞき込む能力が自分にはあるのだろうと語っていた。