メタボリズムの未来都市展──戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン

メタボリズムの未来都市展──戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン

メタボリズムの未来都市展──戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン

2011年に森美術館で開催された展覧会のカタログである。過去の人が想像した未来を見るのがとても楽しくて2回見に行ったほどだ。また「実現せず」「現存せず」といった作品の設計図や在りし日の姿を見るのも、はかなさは感じるが、コンセプトは生き続けるというパワーを感じるし、「ありえたかもしれない世界」を見ていると、実現しなかったからこそ貴重なものという特別感もわいてくるものだ。

破壊と生成

本展は、奇しくも東日本大震災後の開催となり、多くの人が復興後の都市空間のあり方という視点で展示に臨むこととなった。実際、丹下健三によるマケドニア首都の震災復興、黒川紀章による伊勢湾台風の農村復興計画など、基本的にメタボリズムは戦災からの復興であったのだ。また磯崎新は、原爆投下後の焦土と化した広島の映像に未来都市の姿を重ね合わせた「電気的迷宮」について、都市とはそもそも災害や戦争によって破壊と生成を繰り返す存在であると提起した。

東日本大震災後、災害に強いまちづくり、強靭な国土計画、レジリエントな経済といったキーワードが乱舞するようになった(ここ2,3年は人口減少と地方創生の陰に隠れているが)。災害に強い建築というと、素人的には、被災してもびくともしないような強さを追求するという発想になりがちである。が、むしろ破壊されることを前提にするからこそ、建築をモジュール化することで、再度被災したとしても全体が消えるのでなくて部分的な破壊に留めることができ、残された遺伝子から都市が再生していくことができるのだ。防災ではなく減災、緩和ではなく適応の発想に近いかもしれない。

あまり安易なアナロジーは避けるべきだが、破壊と生成を前提にした建築というと、式年遷宮を思い出さずにはいられない。ちなみに、たとえば2015年に式年遷宮を迎えた京都の下鴨神社は、国宝や重要文化財を壊すわけにはいかないため、式年遷宮では修理や色の塗り替え程度しか手を加えないという。

一見、破壊されるのが前提で都市を作るというと、過度に悲観的にも感じる。でも――よく言われるようにこれが日本的な美的感覚なのかどうかはわからないけれど――永遠に続くものはないという感覚は、長期的に見れば現実的だ。持続可能な発展というと、いつまでも続くもの、変わらぬものを安易に想定しがちだ。が、人類や地球だって無限の将来までは続かないのだし、すべてのものを変わらず残すことは、減耗とメンテナンスがあったとしても物理的に不可能なだけでなく、ひょっとすると望ましくさえないのかもしれない。近年の持続可能な発展のテーゼ自体が間違っているとは思わないが、それを解釈する際に注意を要するものである。

伝統を生かす

1962年磯崎新設計の空中都市は、市街地が都市化により制御不能に陥っている現実に対し、東大寺南大門に想を得、空中から水平方向に延びていく逆三角形型の構造を提案した。また大谷幸夫の麹町計画は、近世の職住近接の町屋とその通りを現代に再現するものであった。関西の代表的なモダニズム建築とされる京都国際会館も、合掌造りや神社建築をほうふつとさせる。このように、日本の伝統文化を活かしつつ、増殖するイメージを持たせるのがメタボリズムの真骨頂であった。伝統を生かすというのも、やはり残された遺伝子から都市が再生するイメージだ。

水平方向に延びていく

大阪万博では、水平に空間が増殖していくスペース・フレームを丹下健三らが組み立てた。これは、ル・コルビジェの「パリの未来」を想起させるし、仙台駅前の歩道橋の連鎖などはそれに近いように思える。また槇文彦は、建築同士をつなぎ連結する空間が魅力的な都市を形成するという「リンケージ」理論を導入した。これは県庁所在地駅前の遊歩道や大学キャンパスに見られ、雨のときは便利だなぁと感じるが、確かにそれ以上の魅力形成につながっているように思われる。このように面か線かという違いはあるが、水平方向のつながりは、都市に新たな魅力を作り出している。

磯崎新の空中都市にも共通し、メタボリズムの一大特徴である、水平方向に延びていくという発想は、都市の魅力というだけでなく、現実的な問題への回答だったのかもしれない。『アメリカ大都市の死と生』解説で明快に指摘されているように、1950年代の欧米の都市は、インナーシティのスラムの荒廃により人々の郊外への脱出に歯止めがかからない状況にあった。日本の都市においてもスラム化して人が郊外に逃げ出す事態になっていたかどうかはさておいて、いずれにしても人口増加と郊外への人口流出という二つの問題に対する回答だったのだろう。現代の都市は、水平方向ではなく主に垂直方向に延びていくことで、すなわちビルの高層化と高密度化によって、この問題を解決した。

環状の空間を結ぶ

黒川紀章磯崎新による鄭州市都市計画は、放射線状から環状の都市への移行を提案したものであり、二つの環状都市を結ぶ構造となっている。なぜこれが共生の思想とつながるのか。人為的に自然環境を作り出すことで環境とも共生し、省エネをビルトインするということのようだ。でもそれだけだとちょっと安易な印象も受ける。

むしろこの形状そのものにヒントがあるように思う。音楽フェスティバルの会場間を移動しているときは、何となく安心感と高揚感がある。それと同じように、職場や学校や自宅のように、自分の場があるけれど、どれか一か所に留まるのではなく、その間を自由に往来できて、移動する間にもいろんなアイデアが生まれたり、なじみの人と出会ったりできるという構造である。また帰宅時には、放射線状に、どんどん人口密度が減っていく中をとぼとぼと家路につくわけではなく、集積地から次の集積地に向かうのである。と、ここまで書いて気付いたが、円環状の都市圏が増殖していくイメージは、エベネザー・ハワードの明日の田園都市そのものではないか。

では、メタボリズムの概念は、今後の日本の建築ニーズに沿うものであろうか。これまで述べてきた、破壊と生成を前提にする、伝統文化から学ぶという発想は、これからの日本の建築にも刺激を与え続けるだろう。世界的には、人口は安定に向かいつつも都市人口は増え続けるため、水平方向に延びていくコンセプトの重要性も減じることはないだろう。また人口減少と高齢化による都市のダウンサイジングという視点に立っても、モジュール化された建築は柔軟にニーズに応じて変化することが可能だろう。実際、ペルー低所得者層集合住宅コンペティションでは、すべての案を実現し、住民が評価するという画期的な提案を日本チームが行ったという。ニーズに合わせて改築が行われ、リアルタイムで住民のウェルビーイングにフィードバックが行われるという考え方である。

メタボリズム進化経済学

メタボリズムというと、産業メタボリズムという考え方があった(今もあるけど、むしろ産業エコロジーと呼ばれるようになってきた)。エネルギーやバージン資源を用いて最上流の原料が加工されて、モノが作られ、それが企業や消費者の手により利活用され、廃棄され、再利用されたり焼却されたりして、次なるモノづくりの原料となるまでのサイクルを、生物が新陳代謝するサイクルになぞらえて産業メタボリズムという。今風にメタボリズム運動が再興されたら、産業メタボリズムよろしく、きっと廃棄後のサイクルまで含めたアイデアがどんどん出てくるだろう。

またメタボリズムは、やはり生物学とのアナロジーを重視する進化経済学とも親和性が高いように思う。主流派経済学が市場の予定調和的均衡を重視するのに対し、進化経済学では、エージェント間の異質性、模倣、相互作用、レプリケーター動学、突然変異とイノベーションといった経済の側面が重視される。この見方からすると、自然を人工資本で代替するか否かという議論は浅く見える。魅力的な都市とは、自然・人工資本を組み合わせたものであることを我々は経験的に知っているし、メタボリズム運動が実践したように、自然のみならず人工資本そのものも、メタボリズム的に進化していくことが可能なのである。

*[アート] blur

KG+で立ち寄ったSferaExhibitionで、去年も放映していたBlurというショートショート、良いのでまた見てしまっただよ(90年代ブリットポップの話ではないです)。視力の弱い父が四六時中、子どもたちの色んな写真を撮っていて、現像もせずいったい何が楽しくてカメラに執着しているのかがわからない。けんかして距離を置いてしまった父が亡くなった後にフィルムを現像してみると、そこには大量のピンボケ写真に交じって、自画像をとる母の姿があった。カメラは母の形見だったのだ。ピンボケ写真は、父が見たそのままの世界だったのだろう。こんな作品は他の人には撮れない、という内容。

www.sigma-global.com

言われてみれば当たり前だけど、人の視界って、身長も視力も視線も興味の対象もみんな違うから、ばらばらなのだ。これを再現するという発想は面白いかもしれない。視覚障碍者の視界を再現する眼鏡とか、動物の視界を再現する映像などはあるけど、そんなカメラがあってもよいかもしれない(そういえば服が透けて見えるカメラがあったらいいなぁっていうしょうもない話、ドラえもんだったっけ?)。

人の視界のみならず、人の考え方とか世界観とか、「あ、こんなことだったんだ」と気づく瞬間がある。それが自分の親だったらなおさら感慨深いし、ほとんどの人には、大人になってやっと自分の親の言っていたことや考えていたことがわかったという経験があるんじゃないかな。でも、お礼を言いたかったり、単に「やっとわかったよ」と伝えたくても、時には遅すぎたりする。そんな切なさも、この作品は代弁してくれるのだ。

それとこの作品のみそは、フィルムという媒体の存在である。フィルムというワンクッションを置くことで、生産と消費との間に時間的ギャップが存在する。そこから、何が生まれるかわからないわくわく感、情報や思い出が失われてしまうかもしれない不安感、そしてこの作品が描き出すように過去とつながる期待感などがもたらされる。デジカメでは生産と消費とがほぼ同時に行われ、精度を保ちながら再生産することも可能だし、消費した画像がいまいちであればそれを次の生産にコストなしでフィードバックさせることもできる。また、チェキも生産と消費とがほぼ同時で時間的ギャップはないけど、こちらはアウトプットがアナログというギャップがある。

もちろんこの作品は、自社製品の宣伝映画でもある。その点に嫌悪感を示す人もいるけど、企業だったら仕方ないというか当たり前でもある。それ以上に、本業を通して人々の幸せに貢献できていれば、素晴らしいんじゃないかなぁ。

Kyotographie 2018 その1

www.kyotographie.jp

美術館えき 蜷川実花

日本にこんな色あったんだっけというくらい鮮やかな色が組み合わされていて純粋にきれい。

背景に傘をさして、しかもお顔の表面がおしろいで均一化されているため、幾何学模様が作りやすくなっている。

舞妓さんはあまり笑わないという先入観があったので、すみれ色の花の後ろから微笑む作品が印象に残った。手前の花、中央のポートレート、背景の傘という三段階で奥行きが与えられ、メリハリがある。

というわけで、伝統がモチーフにありながら、私にとっては構図も色彩も被写体も新鮮でした。

http://kyoto.wjr-isetan.co.jp/museum/exhibition_1805.html

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藤井大丸 ブラックストレージ Stephan James

1966年にカリフォルニアで結成されたブラックパンサー党の活動を記録したもの。デパート裏の空き地2階にある不思議な空間がTo struggle、To unite、To communicateなどいくつかのブースに分けられ、党員の闘志を感じる一断面が切り取られる。党の新聞を配る女性や子供など、あくまで平和的な手段に訴える人々の肖像が映し出される。平和が当たり前になった時代のデモとは違う雰囲気だったのだろうか。でもそこまでの緊迫感は感じない。簡単な足し算を書いた黒板を掲げる女の子の誇らしげな表情。これは、ブラックパンサーが自ら運営したIYIの授業のようだ。

奥のブースに掲げられた党の十か条要求のようなものが、誰でもわかる簡単な英語で、しかも当たり前すぎることが単刀直入に書かれていることにびっくり。今ならSDGsにありそうな内容で、たとえば第十条はWe want land, bread, housing, education, clothing, justice and peace. とある(どうでもいいけど、既に第4条で既に衣食住の住に言及しているのでMECEではない!)。

あとブラックパンサーは、単なるイデオロギー集団ではなく、子どもたちへの朝食提供や、オルタナティブ学校であるIntercommunal Youth Instituteを運営するなど、黒人の泥臭い生活支援を実行した偉大さがある。どこぞの国の政党も学べることがあるはず。

蛇足だけど、日本に支援会がありそれなりに翻訳書などが出ていたとは知らなんだ。しかも鈴木主税さんって、最近もスティグリッツとか訳した方(左寄りで一貫してますね)。

y gion 劉勃麟

背景と同じように自分にボディペイントを施すことで透明人間になるという着想。Ruinartシャンペンが所有する一面に広がる収穫直前のブドウ畑、じっくり醸成されるシャンペンが放つ幻想的な光で満たされた地下セラー、オートメーションの象徴のような瓶詰工場など、インスピレーションを湧き立てる場所でパフォーマンスを行っている。

もちろん正確には透明人間になり切れているわけではなく、目を凝らすと作家が見えるから、保護色のようなものでもあり、この隠れきれていない不完全さがまたいい。というか全く同化して気づかれなかったら意味がないわけで…。

劉は、元々は当局に対する抗議のパフォーマンスとして始めたものらしい。もちろん、透明人間になることで、自分という存在の不確かさとか、当たり前の光景が実は当たり前ではないとかの主張を読み取ることも不可能ではないだろう。でもメイキング映像を見ると、劉がフランスの大地で理屈抜きに楽しみながらやっているのがわかるし、結局それがほとんどすべてではないだろうか。

LIU BOLIN | Fine Arts | Invisible Man | Chinese Performance Artist

会場はSferaの右隣りのビルで2017年にリノベーションされたとか。狭い京都には本当に、奥深いところにこういうスペースがあってしびれる。

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*[読書]9プリンシプルズ

9プリンシプルズ:加速する未来で勝ち残るために

9プリンシプルズ:加速する未来で勝ち残るために

筆者による9つの原則は下記である。これは理論的に導き出されたというより、筆者とその仲間たちが長年の活動の中で実践してきたものだ。これまた色々刺激を受けた。

権威より創発
プッシュよりプル
地図よりコンパス
安全よりリスク
理論より実践
従順より不服従
能力より多様性
強さより回復力
モノよりシステム

訳者解説にあるように、こんなことが本当に起こるのだろうかという視点や、面白いことに対する感応度をよくしておくという視点もありうるが、まずは自分たちの組織で9つをどのように生かせるだろうかという実践的な視点もよいのでは(理論より実践!)。

たとえば「プッシュよりプル」で紹介されているのは、311の後、放射能を計測するガイガーカウンターを確保するため、ハッカースペースで自分たちで作り、自動車に取り付けることでたくさんのデータを集められるというアイデアをもらい、キックスターターで資金調達し、市民科学者からデータを集め、クリエイティブコモンズで提供した、というエピソード。

自分たちにこんなすごいことはできないけど、まずは手ごろなSNSを通じて仕事に関係しそうな人とつながっておくだけでも実践につながるだろう。あるいは、事業のアイデア段階で、部署や組織を越えて共有し、日本いや世界から適材適所の人材でチームを結成できればベストだろう。もちろん言うは易しで、アイデアだけ取られるリスクや、同床異夢で互いにリソースを浪費するだけで終わるかもしれない。でもまずは一歩を踏み出してみたい。

「地図よりコンパス」も言いたいことはよくわかる。マクロ的な鳥観図の中で自分を位置づけるのも良いけど、よくわからないがその時に面白そうな方向に進んでいくということであれば、大半の人はそんな感じで人生のコマを進めているのではないだろうか。しかし人をまとめる管理職となると話は別だ。私たちは、経営戦略やら、事業計画やら、五か年計画やらの中で、自分たちのやっていることがどこに位置づけられるかを明確にし、説明できないプロジェクトがあればメンバーの行動を修正しなければならない。公共プロジェクトであれば、なおさらアカウンタビリティが求められる。

本書が言っているのは、MITメディアラボのようなクリエイティブ志向の組織では、詳細な計画づくりがそもそも不可能では、ということだ。公共事業でも、グーグルや丸紅などが従業員の労務管理で実践しているように、説明できなくてもよいから面白い事業にたとえば15%は投じる、といったようなバランスが必要なのかもしれない。ベンチャー事業支援制度とかは、本当はそんなスピリットのはずなのだけど…。

訳者解説では、新しい発展に潜む可能性を感じ取ること、面白いと思う能力を身に着けることが次の時代の動きを読むのに大事という。おもしろいかどうか(あるいはちょっと違うけど、みんなが楽しんでやれるかどうか)は、とても定性的だし、人によっても異なるので事業評価などになかなか入れづらい視点だが、結構重要だったりするので、何か枠組みを考えたいなぁ。

*[読書]ネットで進化する人類 ビフォア/アフター・インターネット

インターネットを媒介に、人類は機械やバイオなどとともに新たな進化を遂げていくという本である。『サピエンス全史』の言い方を借りれば、サイボーグ工学等が自然淘汰にとって代わることで「超・ホモサピエンス」になっていく過程である。

1章(スプ):未来にはこうなるかもしれないというProvocativeな問いかけをアーティストとして行っていきたいというマニフェストと解釈した。オキシトシン生成遺伝子を組み込んだカイコで作った、恋に落ちるかもしれないシルクドレスとか、純粋に楽しんでやっているのもよいけど、それ以上に、サイエンスとアートとエンジニアリングの架け橋になるという使命感は爽快である。

4章(藤井):バーチャルリアリティーや藤井らの進めるSRによって、ヘッドマウントディスプレイを通じて自己は自らの肉体を越えるようになる。幽体離脱離人症のような不思議な感覚が得られるというだけでなく、外科医のように希少な専門性を持った人間が、他の人間を同時に操って能力をシェアすることができるようになるという。欲を言えば、「脳の潜在機能の拡張」という節は、どんな部位がどのように拡張されるのかといった内容があるとよいと感じた。

5章(田中):オープンソース3DプリンタであるRepRapは、自己再生産する機械というコンセプトだったが、文字通り機械が自己再生産するのは難しい。でも、オープンソースでプリンタが改良、進歩、分化していくのも自己再生産に近いという(ややこじつけ感があるが、理論やアナロジーとしてとても面白い)。

3Dプリンタは、情報を送ってしまうとあとは人間のやることはない点が、強みでも弱みでもあるという。田中は、あえてそれを半自動にすることで、人間と機械とが互いに創ったり壊したりしていくことが、便利さではなく創造性を追求するために必要なのではないか、と指摘する。このようにあえてループホールを残しておくというのは直観的に正しい気がするし、人間と機械が共進化する新たな可能性を感じる。

6章(伊藤):DIYバイオで創薬する伊藤の興奮が伝わってくる。ただ、本書全体のまとめをしようという意図からか、バイオでない視点も入ってきて焦点がぼやけてしまっているのが残念。マインドフルネス、アイデンティティ、コミュニケーションなど非常に重要な論点にも触れられるが、どれもちょっとした紹介程度に終わっているので、章を改めてほしかった。

本書全体として、人間と機械やバイオなどとの「共進化」がますます鮮明になっていくと感じた。当然のことながら、こういう進化が良い悪いという規範的な判断は据え置かれているし、楽観主義者としては、これが切り開く様々な可能性に期待したいけど、一方で課題も出てくる。たとえば4章のように自己が肉体を超えるようになると、アイデンティティの再定義を迫られることになる。一体我々は何になりたいのか?また、市場での臓器ならぬ身体売買に対する需要が生まれることも想像に難くない。

こうした哲学・倫理的な問題は山積している。というか、一つの問題が解決しないまま、新たな難題に次から次へと襲われる感覚さえある。これらに対処するにも、伊藤は「コミュニケーション」が必要と6章で述べる。それはそうなんだろうけど、やや物足りなく、提案としてもう一歩踏み込んでほしかった。

具体的には、本書が提示するような新たな人類進化に対する、抜本的な社会的熟議の仕組みを作っていく必要があると思う。その際のヒント(の一つ)は、やはりインターネットやオープンソースにあるような気がする。

たとえば1章では、多くの人と研究者がやり取りする「反応する科学(Responsive science)」が提示されているが、科学技術を一般に伝えるサイエンスカフェの取り組みや、リスクコミュニケーションなどの知見も使えば、こうした進化に適応していくことは不可能ではないし、自分もそういう議論に関わっていきたいと思う。

*[TED]建築家は人間関係を築いているのだ

www.ted.com

アメリカの建築家Jeanne Gangという人が、Architects are relationship buildersと言っている。

公共空間が人間関係を形成するという議論は珍しくない。そしてうちの会社でも話題になっていたけど、普段一緒に仕事をしない人同士の交流を活性化するためのオフィススペース設計という議論もある。でも建築という、都市空間やオフィススペースのちょうど中間にある、物理的な単位だけでもこういう議論ができるのが新鮮だった。もちろん、私が知らないだけで、そういう建築の議論はいっぱいあるのだろう。

このプレゼンで具体的に紹介されているのは、みんなでワークショップしながら作っていった設計図で、警察署をPoliceからPolisにする、つまり従来のように駐車場の真ん中にあって近寄りがたい権威の象徴であるような場所ではなく、みんなが集まって交流する空間にしよう、という考え方。実際に、バスケットボールのコートを中心に警察署を配置してみたら、親御さんはみな安心してそこに子供を行かせるようになったという。

そういえばうちの近所の警察署でも、地元の子どもたちに剣道を教えていて、これをもっと開放的にやれば、ここでの趣旨に近くなりそう。でも日本には既にこれに似た考え方がある。(やや神話化している面があり最近はかならずしもそうでないのかもしれないけど)交番が地域の人たちの安心スポットになっていたりする。

また、プレゼンでは、将来的には銀行やら理髪店やらも集めたいとのことだけど…これは日本で既にショッピングモールやコンビニが街で果たしている機能とほぼ同じ。町の人たちが集まる商業的機能が賑わいをもたらすのだけど、そこに治安を司る権威を置くかどうかという違いになってくる。コンビニと交番をくっつけてみるとかもありかも。

皮肉なことに、同じTEDで、アメリカで死んでしまったショッピングモールを撮る人のプレゼンがあった。商業的機能と言っても、一つの資本がトップダウンで作るようなものは、飽きられたり、人口が減ったりするとすぐに撤退してしまう。建設する段階から地元の人をうまく巻き込んで、従来の人間関係を壊さないようなものにする必要がある。結局、警察署に商業的機能をくっつけるのも大いに結構だけど、人間関係(社会関係資本)を損ねないようなものに、ということになるだろう。やはり、建築家(と市民)は、人間関係を建築するのである。

www.ted.com

*[読書]明日の田園都市

 

新訳 明日の田園都市

新訳 明日の田園都市

 

 

ニュータウン田園都市計画を1900年前後に世界で初めて提案した本。高校の地理で、レッチワースという地名は習った記憶がある。その理論と実践を示した人の古典で、都市の過密やスラム拡大と地方の過疎・衰退という二つの問題に同時に取り組んだとされる。多くの先進国がスラムを克服しつつある中、これを読む現代的意義はあるのだろうかと半信半疑のまま読み進めた。

 

まずこの本は、町=社会といなか=自然は磁石で結ばれていなくてはならないと述べる。そうですよね。現に、都心から230分程度の移動で自然と触れ合える都市は魅力的だ。また本書の提案では、農地と消費地とが隣接しており、地産地消の概念も先取りされている。

 

そして本全体として、田園都市そのものの構造の話よりも、お金のまわり方や、コミュニティの移住についての主張が多いのが意外だった。また、アルフレッド・マーシャルJS・ミルなど経済学者の影響を受けていることもあり、自治体と民間の領域はどこで線を引くべきか?生産増大(効率性)と公平性とを両立させるにはどうすればよいか?といった、現代でもよく問われる経済学的な論点が既に議論されている。

 

もちろん、スラムを壊して新しく郊外に町を作る、というコンセプトそのものは、今後の日本にはあまり関係ないだろう。とはいえ、人口減少を前提にしたコンパクトシティ化、Iターンによる地方創生という文脈で読むと示唆があるかもしれない。発想を転換して、ひょっとしたら地方都市でこそ、既存の市街地にとらわれず、新しい中心部を郊外に作ることが新たな人やお金の流れを作るかもしれない。もちろん途上国ではもっと現実的な適用の可能性が高い議論の幅が広がるだろう。でも一方で、あまりこれにとらわれ過ぎるのも非現実的である。たとえばロンドンやニューヨークでは、郊外に町を作るのではなく、犯罪多発地域を再生させた再開発の事例もある。色んな制約から、移転ではなく、既存の都市をどう再開発するかということの方が重要であり続けるだろう。

 

本書が提案したようなニュータウンは、人工的過ぎて温かみがないと批判されがちである。では、ジェーン・ジェイコブスの言う雑多なご近所が織りなす温かみを持ちつつ、新たな街づくりをすることはできるだろうか?そのヒントとして、本書が基づく理論(の一つ)であるウェイクフィールドの植民地理論によれば、元の社会状態のまま、コミュニティが丸ごと移住することが重要だという。また著者は、労働者が自ら町を作ることで、資本家に対抗できるともいう。翻って現代の日本。東北の被災地からの移住においても、もとからのコミュニティが温存されることが人々の生活への満足度にとって重要だったことがわかっている。元のコミュニティをできるだけ保存すること、移住者自らが街づくりに関与すること、が今後の災害への事後対応として重視されるべきではないか。

 

都市同士のつながりはどうなるのか、スラムをつぶした後のロンドンはどうなるのか、といった根本的な疑問もある(一応、本書に答えは用意されているが)。自発的行動や競争が起こることを楽観視しすぎでは?そもそも田園都市を信託財産として持つ人はどこから現れるのか?

 

こうした疑問は残るし、本書の内容をそのまま実践する時代ではなくなったが、何らかの現代的気づきが今でも得られる本だと思う。