神島裕子『正義とは何か』メモ

サンデルの言うように、「私は自分の正義を、君は君の正義を」では、単なる相対主義に陥りかねない。正しさとはなんだろうか? プラトンいわく、理知、勇気、節制の三つの徳のバランスがとれているときに魂は正しくある。これが正義。

ウォルツァー(1981)いわく、哲学的に正しいことであっても、民主主義の下では、それを採用するかどうかは私たちが決める。共同体内部で得られる政治的知識は、唯一の哲学的知識とは異なり、共同体の数だけある。

ロールズ

  • 社会全体の厚生よりも、個人の自由と権利が優先。正義原理のかかる対象は「基礎構造」(制度のこと)。
  • 第一原理:基本的諸自由(政治的、言論、良心、…)の最も広範な全システムについての平等。最も広範な全システムとあるので、ある自由のために他の自由を制限することはあるが、なるべく最小限にとどめる。
  • 第二原理:そのうち格差原理:不平等を、正義にかなった貯蓄原理と整合させつつ、最も恵まれない人の最大の便益に資するようにする。
  • アリストテレスの比例的正義と異なり、功績や地位によらず、分配を行う正義。
  • まだ決まっていない原初状態(オリジナル・ポジション)にあるメンバーが、無知のベールに包まれて、合意するルールは、誰にとっても公正となるはず。
  • (運よく)才能を持って生まれた人がそれを使って得た所得・富は共有して、最低限の暮らしを保証する。
  • どのようなWell-beingの構想を持っている人でも、自由で合理的な人であれば、社会のメンバーとして生きる上で必要とされる基本財が、社会の基礎構造を通じて分配される

アマルティア・セン

基本財ではなくケイパビリティの平等。財(達成する手段)と潜在能力(実質的自由)と機能(達成された状態)。

スミスの共感に基づいた「公平な観察者」に対し、ロールズは、無知のベールの背後の当事者のほうがより公正な判断を下せるとしていた。センは、ロールズの契約説を「閉ざされた不偏性」と批判、スミスの衡平な観察者による「開かれた不偏性」に可能性を見出す。

コミュニタリアンによる共通善の政治

ロールズは、自分が誰であるかを知らない人々が考えるからこそ公正としての正義にたどり着けるとしたが、コミュニタリアンは、どの目的=善からも自由な正義には意味がない、抽象的で普遍的な正を、具体的で特定の膳に優先させていると批判した。人はある生を生きていて、負荷なき善ではなく、特定のコミュニティの中での善をつくる。文化や伝統などの文脈を持たない「負荷なき自我」をロールズは想定しているが、実際の自我は特定の文脈の中で自分が何者であるのかを解釈する「位置づけられた自我」。

具体的には…

  • 共通善への献身を市民のうちに育てる教育(ボランティア義務)
  • 臓器や妊娠などお金では買えないものの市場制限
  • 連帯とコミュニティ意識の育成へ向けた学校等の基盤の再構築
  • 共通善への政治への関与(道徳や宗教に関する争いを回避するのは偽りの敬意にすぎない。真っ向から議論すべき)→ロールズ以降のリベラリズム「中立性」への批判。妊娠中絶や同性婚を、リベラリズムのように「個人の選択の問題」と中立を気取るのではなく、きちんと政治が介入して議論すべき。

マッキンタイア『美徳なき時代』「物語は、孤高の場合を除けば、語られる前に生きられているのだ。」Xにとっての善い生は、その人が属する共同体の伝統の中にある。共同体の物語を全うするのがその人にとっての良い生。

フェミニズム

オノラ・オニール:権利=請求権には、それに対応する義務の担い手がいる。でも義務の中には、完全義務とできるものもあるが、「気づかいをする」など、義務ではなく徳として奨励すべきもの(不完全義務)もある。そのため権利から議論をスタートさせると、後者が軽視されてしまう。そこで、義務から議論を始めよう。自由権は不可侵で完全義務であるのに対し、財・サービスの請求権は不完全義務とされることが多いが、女性に特有の妊娠・出産に関するマタニティケアなどは、不完全義務とは言えないのではないか。こうした義務の提供は、分配的正義の対象となる。

マーサ・ヌスバウム:私たちは何者か。古典の中で称賛されてきた機能Functioningsからスタートしよう。さらにそこからケイパビリティに戻れば、必要なケイパビリティのリストが得られる。ケイパビリティはアリストテレスの可能態(デュミナス)、機能は現実態(エネルゲイア)に相当する。

とはいえ、アリストテレスそのままではない。アリストテレスは、知性的・倫理的働きを全身全霊で実践し続けることで実現する幸福(エウダイモニア)を最高位の善とした。これに対しケイパビリティは、機能を果たしているかどうかではなく、幸福になれるかどうかに注目。個人の選択によって、幸福にならなくてもよい。たとえば女性に志操堅固を押し付けるといった、個人の選択を狭める伝統が批判の対象になっている。

所感

リベラリズムリバタリアニズムコミュニタリアニズムフェミニズム、コスモポリタニズム、ナショナリズムの6つの正義論を論じ、そのどれかに肩入れするでもなく、切磋琢磨する様子を描いている。女性についての章があるのが特徴的。同じように、社会的な障がい者についても論じても良かっただろう。

本書全体として、バランスの取れた中立的な見方がされているのが長所で、短所でもある。様々な理論が切磋琢磨しているというのはその通りだけど、でも自分は何も選びませんというのだったら、それこそコミュニタリアンによる過度な中立主義という批判に耐えられないのではと懸念。たとえばヌスバウム的なケイパビリティを重視するのか、それともアリストテレス的に最終的な善の実現を重視するのか?私自身は、ケイパビリティすべての集合ではなく、かといって一つの機能でもなく、個人の多様性を反映して機能をもう少し幅広く規定したものにするのが生産的ではと感じた。

ロールズ以降の(コミュニタリアンからすると)行き過ぎた中立主義について、現代社会の寛容さでもあり生きにくさでもある。ここで指摘されているように、多様な価値観を認め合わなければいけないという考え方から、「それは違うんじゃないか」と言いにくくてストレスがたまるということもあるだろう。

こういう本を通じて、女性や障碍者や外国人を巡る現実の問題に対する議論がより深まるとよいなぁ。さらに若い読者の中から、新たな道徳哲学の理論、特に東洋哲学のエッセンスも盛り込んだようなものが提示されないかなぁ。