読書メモ:トップダウン理論で公共政策を切れない理由

トップダウン式に哲学理論から始めるのではなく、ボトムアップ式に、まず公共政策論争で何が対立しているのかを理解し、それぞれの立場がどのような哲学理論で「説明」できそうか(「証明」ではない!)を考えるというスタンスが本書全体で貫かれている。この一貫性と、動物実験やドラッグといった各問題における考え方が示されている具体性が本書の魅力であり、誠実な態度に信頼が持てる。なんとなく、哲学で理論武装すればスッキリ問題が切れるのではないかと期待する私のような怠け者の期待を見事に裏切ってくれる。そのため、スッキリ感ではなくモヤモヤ感が残れば本書をきちんと読んだといえる。ただし、個別事例への適用以外にそんなに新しさはなく、既にキャス・サンスティーンが一連の本で主張しているような内容に、アマルティア・セン的アプローチをとったという感じだ。

トップダウンの理論からアプローチするとなぜまずいのか

ではトップダウン式に一つの理論を適用するとなぜおかしなことになるのか。多くの人は、帰結主義功利主義的な立場も、義務論・絶対主義的な立場も両方必要と考えるように、どの理論にも一理があるからだろう。

たとえば、動物の権利理論によれば、動物が痛みを感じるなら動物実験は金輪際ダメということになるが、果たして動物の権利は他のもろもろよりも大事だろうか。動物実験をすることによるメリットがとても大きいなら、そこで権利だけを絶対視するのはおかしいだろう。

(ちなみに人間が他の動物よりも優れているかもしれない理由の候補として、感覚Sentience、自律Autonomy、善Good、能力Capability to flourish、声明を持つPossession of a life、社会性Sociabilityの5つが指摘されている。)

中絶についても、それぞれの立場を明確化するために、「女性の権利vs胎児の権利」と単純化されることが多いが、ほとんどの人はどちらの権利も重要だと考えている。やはり、理論同士の対立ではないのだ。

また別の例として、安全への投資と命の価値がある。1年に事故死する人を5人減らせる安全装置への投資に何億円までかけてもよいだろうか?功利主義では答えが出せるが、義務論では何億円であっても投資すべき、答えは無限大となる。ここで、功利主義では、命の値段が分析に使われる(アメリカでは9億円くらい)。人の命に値段をつけることには嫌悪感を覚える人が大半だ。でも分析に使われる統計的生命価値(VSL)は、命の価値そのものではなく、日常生活で私たちが「安全を買う」のと同じように、リスクを減らすことに対する対価である。1000人のうち1人死ぬのかもしれないし、1000人全員死ぬ可能性もなくはない。

1人の命はいくら出しても変えないのだから、何百億円であっても安全装置の開発に投資すべきという義務論を尊重しつつも、同じお金を使ってもっと多くの命を救う他の方法があるのでは、という考え方に多くの人は納得するだろう。イギリスでは鉄道事故の後、鉄道を止めてくまなく検査したがために、多くの人が自動車を代替手段として使ったために、社会全体としては死亡数が増えてしまった。

他の例として、JSミルのリベラリズム理論である「国家の介入は他者への危害がある時だけ」をギャンブル規制に適用するとやはり変なことになる。ギャンブルそれ自体が悪なのか、ギャンブルの帰結が悪なのか、他者・家族への危害が悪なのか、こうしたことを一つ一つ整理していく必要がある。またギャンブルの機会が増えたからと言って、依存症が増えるとも限らないという指摘は、哲学議論においてもファクトやエビデンスが重要であることを思い出させてくれる。

機会の平等、結果の平等、財と潜在能力

Dworkin (1981)は、ウェルフェアの平等とリソースの平等では後者が重要とし、さらに資源は外的資源(お金など)と内的資源(能力など)に分かれるとした。しかし障害についての分析は行っておらず、社会が障害を作るというソーシャルモデルではなく障害そのものを見るメディカルモデルを想定しているようだ。主観的福祉の平等の立場をとると、先進国では障がい者の満足度が低いわけではないので、何もしないのが良いことになってしまう!しかも世の中には他にもいろんな不平等がある。ではどうしたらよいか?完全な不平等を目指したりすべての不正義を取り除いたりすることはできないが、今の不正義を少しでも改善する、少なくとも悪化はさせないというプラグマティックな平等を目指すべき、という。

これは、機会の平等か、結果の平等かという、米国のアファーマティブ・アクションをめぐる論争にも近い。もっと言うと、ジョン・ロールズアマルティア・センらが作ってきた、基本財・潜在能力・ウェルフェアという3段階の理論に沿った議論だ。

著者本人も最終章でその影響を認めているが、アマルティア・セン『正義のアイディア』やバーナード・ウィリアムズの不完全社会における漸進主義である。理想的な社会でのべき論を振りかざすのではなく、現実の不正義を認めたうえで、じゃあこの不正義が今よりも悪化しないようにするにはどうしたらいいだろう?という考え方だ。

理論と政策とを行ったり来たりしつつ、インプリケーションから逆に理論を選ぶこともある。障碍者への現金の移転よりも地位の向上が望ましいと思うなら、リソースの理論ではなく潜在能力の理論のほうがもっともらしい。これもまたアマルティア・センの反照的均衡Reflective equilibriumである。

結局のところ、実践あるのみ?

このようにして考えると、様々な意見に耳を傾け、それを支えてくれそうな哲学理論と結びつけるという思考訓練をしつつ、公共政策においては最善の理論などないという前提に立ち、結局最終的には、費用便益分析やその他の分析を使って不正義を少しでも減らせる方法を議論していくしかないように思える。帰結主義と義務論とのバランス感覚が必要だが、どこでバランスをとるかということについては、時と場合によるとしか言いようがない。でもそのバランスのとり方こそが知りたいことだったりする。あとは実践あるのみということなのだろうか。

その他

手っ取り早い分析用具は期待しない方がよいが、ツールとしては、道徳問題回避のための3R(Russel and Burch 1959)が極めて常識的ではあるが便利だろう。Refinement改善、Reduction削減、Replacement置き換え、である。

Hare (1952)は、信念と行動とは一致すべきと論じた。実生活でこのように考えることも多いと思うが、筆者はこれをそのまま動物実験など現代の問題にあてはめるのはあまりに教条主義的だという。たとえば奴隷制が存在した時代、奴隷を使っていた人も、この制度に何の問題もないと考え、なんの後ろめたさも感じていなかったわけではなかったろうと述べる。

また、アルコール(合法)とエクスタシー(違法)に対する政策が矛盾しているように見えても、問題ない。哲学理論ではなく、公共政策においては、一貫性は必ずしも美徳ではないから、と言う。これはボトムアップでアプローチするから当然といえば当然である。

各章の要約が有益。読み物的に敷居を低くしているともいえるが、もっと教科書的な本も欲しいと思った(と思ったら教科書があるんですね。失礼しました)。なお、日本語訳はやや固い。また、〔 〕で訳者による補足が頻繁に行われ、たとえば文末の〔からである〕などの補足もある。これは翻訳への自信のなさとも解釈されかねない。

ちなみに原題は、『倫理と公共政策』である。邦訳では、一貫して「哲学」の語が当てられているが、「倫理」のほうが敷居が低く感じられると思うのだが、いかがだろうか。