椿姫その1:新国立劇場のオペラ、舞台美術が特に秀逸

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人生でオペラを生で見るのは、おそらく2回目である。中学生くらいの頃、母に連れられて「カルメン」を観た。内容はあまり覚えていないのだが…。それ以来のオペラであるヴェルディ「椿姫」を新国立劇場で見る機会に恵まれた。

肝心の歌は、主役二人も(パパタナシュ、チェネス)、アルフレードの父役の日本人も良かった。実のところ、あまりオペラの巧拙がわからないので、将来的にはもう少しわかるようになっていたい。

舞台美術:鏡・台形・繭・ピアノ

それ以上に、舞台美術が全編を通して興味深かった。言葉で表現しづらいのだが、奥行きが台形のような構造になっており、斜辺の部分が全面鏡になっている。そのため奥行きがあるように見え、登場人物の斜め後ろ姿も反射して見えるようになっているのだ。舞台裏を隠す道具にもなっているのだろう。

第一幕は19世紀半ば、パリ上流階級の屋敷。第2幕、パリ郊外のヴィオレッタの自宅は、簡素だが上に小さなパラソルが浮いているのは、メリーポピンズのように自由になりたいというヴィオレッタの願望だろうか。特に第三幕のセットは印象的だ。病床にあるヴィオレッタに近づくアルフレードも父も医師も、薄いシルクのようなカーテンのような、繭のようなものの向こう側にいて、直接触れることができそうでできないもどかしさが絶妙だ。二者の生きる世界が違うこと、ヴィオレッタがもうすぐ旅立たなければいけない運命を暗示している。シルクにはそよ風が吹き続け、優しく膨らんだままである。

この劇中を通じて、アルフレードヴィオレッタもなぜかピアノの上に乗って感情表現をすることが多い。これは、エックスアンプロバンスの2011年公演のメイキング映画「椿姫ができるまで」と比較して、なるほどと感じた。エックスアンプロバンスの公演のように、野外の地べたにござを引いて主人公が寝っ転がっていると、観客が見下ろす格好になる。新国立劇場のようにピアノの上にいると、自然に観客と同じ目線で、しかも近くにいる感じがするのだ。また、都会的で知的な印象も与える。

ラストシーンの解釈

ラストも印象的だ。病床に臥したヴィオレッタは、アルフレードと父に見守られながら天寿を全うするという、ラ・ボエーム的な最後を予想していた。

しかし!ヴィオレッタは、丸くくりぬかれた円の外に出てきて、力を感じる、また生き返るようだと喜びに声を震わせて幕引きとなる。生の喜びに向けた前向きな終わり方が、意外で希望を感じさせた。

ロラン・バルトが指摘した、主人公は父親からの承認を得たというハッピーエンド的な解釈にも沿う(これは好みが分かれるかもしれない)。また、このオペラはヴィオレッタが見ている幻なのだという解釈もあるそうだが、なるほど、そんな解釈も可能なプロダクションだった。

アルフレード父子

アルフレードの父がヴィオレッタに息子と別れるよう迫るのは、現代の感覚ではなかなか理解できない…といいたいところだが、さしずめ現代のヘリコプター・ペアレントでもある。家柄を重視して結婚に反対すること自体は今もあるし、結局のところあまり時代は変わっていないのかもしれない。家柄的な恥の概念は、日本とあまり変わらないという感じもする。また、父系社会だからか、母親の存在はゼロである。それにしても、ヴィオレッタではなく、まずは実の息子に言えよ、という感じはする。

アルフレードの父も、娘の縁談に影響するからという理由で一方的に絶縁を迫るのはひどいとはいえ、財産処分をしたヴィオレッタを見直して、自分の娘として扱うようになる。しかし別れてほしいこと自体は取り消さないなど、なんだか一貫性がない感じもするが、基本的にはいい人として描かれている。非情だけれども自分の現実的な希望を優先する、世渡り上手な男性だったのかもしれない。

そしてアルフレードは、事情を知らずに自分を裏切ったものだと勘違いして、財産処分をしたヴィオレッタに、ギャンブルで儲けたお金を投げつけてしまう。そして女性を侮辱したと周囲から避難の嵐、猛省する。この辺り、未熟ではあるものの、失敗から学ぶ、道徳観はきちんとした若者として描かれている。

経済状況

そして経済的解釈としても面白い。そもそもアルフレードって仕事もせず何してんの?ヴィオレッタが財産処分しているということは、パリ郊外に移ったとはいえ、そこそこ生活は苦しいということだろう。ピケティの著書にあるように、所得の数倍の資産がないと、パリで利子生活を営むのはキツイのかもしれない。

アルフレードの妹が縁談しているということから、父親はそっちの結婚資金を準備しているのかもしれない。もしくは、アルフレードが父の望む結婚をするのであれば、資金提供もいとわないのかもしれない。

いずれにしても、アルフレードが(ギャンブルではなく)定職につけばいいようなものだが、生活のために仕事をするのは恥というような、中途半端な中流階級だったのだろうか。第1幕と第2幕との間にあるであろう、二人の蜜月、フェリーチェFeliceな生活が全く描かれないので、原作を読むしかない。