桜を見る会と平等について

日本国内のニュースは、かなりどうでもいいことに時間が割かれているが、「桜を見る会」もしかり。これが政権の腐敗した構造的性質を表すのであればまだしも、野党が政府与党のあら捜しを必死にしている一環という印象をぬぐえない。とある野党首脳コメント「安倍政権には桜のように散っていただいて」、うまいことを言ったなぁと悦に入っている暇があったら、もっと生産的な政策議論で勝負してほしい。

さて、とあるラジオ番組で、首都大学東京憲法学者木村草太氏のコメントが紹介されていて気になった。氏いわく、「日本国憲法では何人たりとも合理的でない理由で差別されてはならないと定められている。だから、功労のあった人でもないのに、安倍首相の友人だからという理由で招待されるなんてけしからん、平等が担保されていない」という趣旨のことを述べておられた(違ってたらすみません)。

なんだかとてもくだらない理屈だなーと感じた。日本国憲法が保障する法の下の平等って、自分が学びたいと思えば大学でも大学院でも進学できるとか、毎日ひもじい思いをせずに生活できるとか、不安があったら相談できる人がいるとか、体に障害があるけど恋愛できるとか、ネットで自由に発言できるとか、病気になったら病院に行けるとか、そういうことなんじゃないの?より一般化すると、それこそ日本国憲法を引用すれば、最低限の健康的で文化的な生活を営みつつ、自分がやりたいことを目指せるような権利が保障されていることなんじゃないの?5000円払って首相のパーチ―に行く権利の平等なんて、こっちから願い下げだわ。

各種世論調査によれば、桜を見る会への国民の反発は強そうだ。でもこの感情が、「○○子ちゃんだけ誕生日会に呼ばれて」的な、どうでもいい不平等?感情に基づいているのだとしたら、なんだかとても残念だ。

フランクファート『不平等論』で論じられているように、一義的には平等そのものより、一人一人が充足した生活を送れているかどうかが重要だ。さらに、人が気にするのは、平等そのものよりも敬意をもって扱われたかどうかだ。その基準に立ったとしても、桜を見る会に招待されなかったから自分には敬意を払われていないなどと感じる人がいるのだろうか?

不平等論: 格差は悪なのか? (単行本)

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個人的には、首相は一応大変な仕事をしているんだから、お花見会くらいの楽しみはあっていいと思う(ちょっと甘すぎかな?)。でも桜の会を批判したいのであれば、あくまで政治家からの便宜供与が行われることによる不正義や非効率性という観点から議論されるべき。前も言ったとおり、この規模であれば問題ないと思うが、さらに大きな規模の腐敗や構造的な問題につながるのであれば、ここできちんと正すべきだと思う。