リスク回避と不平等回避の起源、マインドフルネス

今回はちょっとジャーゴンばかりですみません。心理学者亀田達也らの実験では、自分自身のギャンブルにおいても、他者どうしの分配においても、マキシミンと功利主義をウェイト付けした準マキシミンの効用関数が最もフィットしたという(平均分散型やCRRA型に比較して)。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2020/01/pdf/028-038.pdf

しかも、ギャンブルにおいても分配においても、人によってウェイトは同じ傾向がみられたという。すなわち自分のギャンブルでリスクをとる人は、マキシミンのウェイトが低く、社会の中で最悪の人の状態への関心が薄い。逆に自分のギャンブルでリスクを避ける人は、マキシミンのウェイトが高く、社会的に最悪な状態を気に掛けやすい。

さらにfMRIの画像を見ると、「未来・あちら」を考えているときに活発化する脳の分野はどの人でも同じだったという。

リスク回避と不平等回避の起源

これはいろいろ興味深い。地球温暖化対策の割引率の最近の研究では、不確実性も不平等も、数学的に同じ扱いがされている。そもそも限界効用の弾力性は相対的リスク回避度とも、不平等回避度とも解釈される(ほかに異時点間の消費の代替の弾力性などの解釈もある)。

ハルサニやロールズが提起した無知のベールに包まれていると、自分も最悪の状態になっていたかもしれないという想像力から、自分自身のリスクを避ける傾向と恵まれない他者への思いが必然的に重なっていくことは、日常生活レベルでも十分理解できる。

リスク回避と不平等回避は、単純に数学的・哲学的な扱いが同じというだけでなく、神経、進化的な根拠が同じ可能性が高いというのは大変面白い。

リスクや不平等への思いは必要だけど、日常では目の前のことに集中しよう

マインドフルネスのプラクティスでは、「今・ここ」に意識を集中することが教えられる。逆に言うと「未来・あちら」を考えるのは、不安を高めることになる。社会や自分にとって最悪の状況を想定することは、メンタル的には不安をもたらすが、長期的な進化や生き残りのためには必須だったということだ。これは大きなディレンマかもしれない。

スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』を読んでも感じたのは、メディアやインテリ層に蔓延する将来悲観論や反知性主義は、悪いシナリオを考えすぎて、世界が良くなっている面のほうが大きいという認識とのバランスが崩れてしまっているということ。

結論として、最悪の状況を想定はするんだけど、それが日々の思考や感情や判断を邪魔してはいけない。この緊張関係の中で、というか両者のバランスをとるうまい方法を、社会や個人が模索し続けることになるだろう。