椿姫その2:デュマフィスによる原作

先述のようにオペラ「椿姫」を見る機会があったのだが、ストーリー的にいくつも謎が残ったこともあり、手に取ったのが本書。

椿姫 (光文社古典新訳文庫)

椿姫 (光文社古典新訳文庫)

オペラでは、小説後半部分に重点が置かれており、馴れ初めやアルマン(オペラではアルフレード)のうじうじした嫉妬などはかなりはしょられていることがわかった。

でもこうした、なかなか人には相談できないような嫉妬や後悔などのネガティブ感情や、マルグリットの家と劇場とを行ったり来たりするしょうもない言動の一つ一つも描かれていることが、かえって人間くさくて共感を呼ぶのかもしれない。アルマンは、付き合い始めてたった2日で、お金のために老伯爵を家に入れたというだけで、嫉妬で別れを切り出すほどだ。とは言え彼女の言動に一喜一憂し、意識過剰で独りよがりなアルマンに、私などの小人物は(もちろん相手は高級娼婦などではないが)、ひそかに、あぁ自分だけじゃないんだとちょっと安心する。そしてそう感じるのがおそらく私だけではないからこそ、普遍性を持つのだと思う。

しかしいくら当代一の美女とは言え、明らかに先がない恋愛に、弁護士資格もあるようなインテリがなぜ入れこんでしまうのか?これに関して彼女の友人プリュダンスは全くの正論を展開する。曰く、アルマンとの関係に気づいたら、老伯爵などパトロンはどちらかの関係を選ぶよう迫るだろう。そうしてマルグリットを社交界から引きはがしたら、彼女は生活できなくなる。時がたてば、不誠実な男なら彼女を見捨てるだろうし、誠実な男なら、彼女に同じ生活水準を保証するために自分自身を不幸にしてしまう、と警告する。しかし…恋は盲目ですな。

マルグリットは、男女関係のみならず友人プリュダンスに対しても、自分の心を率直に言えないと孤独を告白する。一見、友人が自分を大事にしてくれるようでもそれは相手の虚栄心からであり、自分に対する真の敬意ではないという。何という孤独!

その一方で、耳が痛い思いもする。私たちは友人などを大事にしているつもりでも、自分にとっての飾りとして大事にしているだけでは?そこに相手に対する本当の敬意はあるか?そう考えてみると、アルマンとマルグリットは、たとえ一瞬であっても、エーリッヒ・フロムの言う「能動的な愛」やハリー・フランクファートの言う「相手への敬意」で生の喜びを得たともいえる。でも現実には、そこまですごい愛じゃなくていいから、一瞬じゃなくて長く続けることこそが重要だったりする。

本書を読んで解けた、オペラを見たときの謎

  • 一体アルマンは毎日プラプラして、何してんのか?→父親の収入からの仕送りで生活している。弁護士資格は取っているが、パリでは仕事にありつけなかった(もちろん未熟練労働の仕事はあっただろうが、そこまでして自分でお金を稼ぐ意味がないということだろう)。
  • 父親がヘリコプターのように息子に付きまとうが、母親の存在は?→すでに亡くなって、財産を残している。
  • アルマンにもそこそこお金がありそうなのに、マルグリットはなぜ財産処分までする必要があるのか?→パリでの派手な生活のためにお金がかかる。高級娼婦は数人のパトロンを抱えるものの、老パトロンではそうした需要の半分しか賄えない。しかもマルグリットにはかなりの借金がある。
  • 父親はマルグリットに息子と別れるよう依頼する前に、息子に直接頼めばいいのでは?→オペラでははしょられているが、実際そうした。でもかたくなに断られたので、息子に内緒でマルグリットのもとに行ったのだ。父がマルグリットに頼みに行ったことは、小説では最後に明かされる。
  • 小説でもオペラでも、父親は高潔な人物として描かれている。あの時代、息子と娘の幸せを本気で考えたら、やはりあのようにお願いするしかなかったのだろう。なおオペラでは、マルグリットは父に「我が娘」として認めてもらえることになっており、マルグリットの病床にも駆けつけて間に合うことができる。

解説によれば、1789年のフランス革命で否定されたはずの王政復古と、海外植民地からの利益が還流し、バブルの様相を呈する経済の中、ブルジョワは繁栄、道徳への回帰が叫ばれた。ちょうど、ヨーロッパでもアメリカでも、これから黄金の時代が始まる胎動が聞こえてきそうだ。

ロラン・バルトによると、これは相思相愛の物語ではなく、親にも世間にも承認されない二人が、神格化された父親からの承認を勝ち取る物語である。さらにオペラでは、マルグリットは自分の娘として認めてもらえるのだから、この側面はさらに強調されている。そして肉体的には間もなく死を迎えるが、魂は開放されて力を得るという成仏的なエンディングを迎える。