塩田千春展:人間関係としての赤い糸、生死のあいまいな境界

昨年スウェーデンに行った時に、とある美術館で企画展を偶然見て、初めて知った。そのときは小一時間しかいられず駆け足になってしまい、また展示内容もだいぶ異なるようなので、改めて訪問。次期館長の片岡真実氏がチーフ・キュレーター。

www.mori.art.museum

人間関係としての赤い糸

赤糸が織りなす世界に圧倒される。糸が絡み合い、結び付き、ほつれてもつれて…という動きをする赤い糸は人間関係を表しているという。社会学ではウィーク・タイズと言って、強いきずなではなく弱いつながりにもメリットがあることが知られているが、この蜘蛛の巣のような赤い糸はすぐに切れてしまいそうだけど一応つながっているウィーク・タイズなのかもしれない。

一方で、無限に広がるウェブはその名の通りインターネットのようでもあるし、どこかが切れても必ず他に迂回ルートがあるという意味で、蜘蛛の巣のように実は強固でレジリエントなのかもしれない。

そしてこの赤い糸がどこから来ているかというと、発生源は一つではない。でもフロアに置かれた舟は、彼女の作品に登場するおなじみのモチーフであるが、草間彌生が強迫観念に駆られて作ったファルスの舟を思い起こす。一部の人にとって、舟(船ではない)は人間関係や意識の生まれる場所を象徴するのだろうか。草間彌生といえば、水玉模様の無限の網のような連続性と拡張性も、塩田の赤い糸に似ている。

人間関係としての糸といえば、「君の名は。」でも紹介された、日本古来の組紐が作り出す縁を表しているともいえる。

そしてこうした糸は、蜘蛛の糸のように張り巡らされるだけでなく、蚕が作り出す繭にもなりうる。糸に守られたベッドが作られ、そこで人が安らかに眠るというインスタレーションは、居場所に困る私たちのためにあるようだ。そういえば、遺伝子組み換えの蚕に蛍光色の繭を編ませていたのはスプツニ子!だったっけ。

焦げたピアノ

そしてこれまた小さい時の記憶で、近所が火事になってピアノが焼けてしまい、その匂いで自分の声が曇っていくのを感じたという。「ピアノの森」で、打ち捨てられたピアノに雷が落ちて激しく燃えてしまったというエピソードを思い出す。単純に楽器が使えなくなってしまうという以上の喪失があるのかもしれない。でも焼け焦げた黒は、作家が宇宙を表すのに使う色だ。破壊と再生、死と生まれ変わりを暗示しているのかもしれない。

生と死:あいまいな境界

生と死も一大テーマだ。祖母の墓で草むしりをして、祖母の命につながっているような畏怖を感じたことが原体験になっている。卵巣がんの経験を経て、Perhaps death does not involve a transformation into nothingness and oblivion, but dissolution.非連続に死という状態にジャンプするのではなく、生と死のあいまいな境界を徐々に動いていき、最後は宇宙全体に溶け込む、と考えることで恐怖がなくなったと述べている。こういう死生観や自然観は、アイスランドで自然との一体感を感じたり、北フランスでの演習でアイデンティティ危機に苦しんで裏山を全裸で転げまわったりした体験から生まれてきたのかもしれない。

実存の危機を超えて

塩田は、若いころに油絵をはやばやとあきらめた。技術的な問題ではなく、中身のなさLack of contentを感じてむなしくなってしまったそうだ。自分は何をやっているんだというむなしさに苦しむ自分をストレートに表現した写真がある。午前中は悶えて、夕方4時ごろにやっと動き出す。引きこもりの人が呟いているかのような、ありがちな実存の危機。でもそれを超えたところで創作の意欲がわいてくるという。難解なようで、私たち誰もが感じる危機を率直に語ってくれる親しみやすさがあるし、自分もがんばろうと思える。

最後は、塩田が住むベルリンでドイツの子どもたちに魂について自由に語ってもらうというビデオだ。子供たちが語る、素直で、様々な、しばしば深遠で興味深い発言に驚かされた。