Kyotographie2018その3

今回のハイライトは最終日にやってきた。

誉田屋源兵衛 深瀬昌久

まず室町四条を上がったところにある誉田屋源兵衛。毎年すっかりおなじみの会場となった。長屋の手前のほうでは、海外では有名な深瀬昌久の猫やカラスや自画像。猫の視線で、サスケという猫を追い続けるうちに、自分も猫のようになってきたという。あなたは犬派?猫派?という二分法が巷にはあるようだけど、猫派を自称する人たちは目線や動き方が猫と同じと感じるものなのだろうか。人間のいたずらっ子のような表情を見事に引き出しており、陰陽に浮かび上がるサスケの影の捉え方も独特だ。写真をピン止めなど加工して、さらにポラロイドでとったという作品も。

自画像は、現代の自撮りのようなもので、いろいろ工夫してユニークながら、あまり共感はできなかったが…。

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誉田屋源兵衛 ロミュエル・ハズメ

奥の通路を抜けたモダンな蔵のような会場は、過去数年はアラスカの雪原や太平洋の鳥を解体したらプラスチックだらけだったといった展示が印象に残っている。今年は、西アフリカはベナン出身のロミュエル・ハズメによる作品。

丸みを帯びた壁面を活かして、ガソリンスタンドというタイトルの横長の作品が掲げられている。巨大ペットボトルに入れられたガソリンが並べられた光景は、12年前にインドネシアブンタン島で目にした光景を思い出す。この辺の人々はヨルバという民族で、エグングンという仮面を着けて踊る。日本各地に残る伝統行事と同じく、先祖=死者の魂が戻ってくるという意味があるというから興味深い。あとは、ポリタンクやほうきなどで作った人の顔や、使い古しの傘で作ったインスタレーションなど。

京都文化博物館別館 ジャンポール・グッド

ジャンポール・グッド氏による、もはや写真展の域を大幅に超えた複合メディア?インスタレーション作品。壁面にはこれまでの作品が並べられ、中央にはとんがった鳥のようなカラフルなオブジェが置かれ、(フランス在住)ロシア人ダンサーが美声を発しながらスルスルと動き回っている。最初は精巧にできた電動人形?と思うほどスルスル感があったが、まごう方なき生身のダンサーであった。スタイリッシュで伸びやかで、鑑賞者も解放される感覚を味わえる空間。

ロシアの文学カフェでは、女優がプーシキン叙事詩などを朗読するらしい。それが歌うようにも聞こえるらしいと知って、今回のロシア人インスタレーションもその伝統を取り入れたのかと合点がいった。

普段は立ち入れない元日本銀行京都支店の2階では、グッド氏の作品のメイキング映像So Far So Goudeを上映。同氏、最初はウエストサイド物語や雨に唄えばなどアメリカのダンスに入れこんだが、絵描きやイラストレーターにもなりたかったとのこと。日本人の先入観と違って、フランス人がアメリカ文化にいかに影響を受けており、ヨーロッパとアメリカの文化の緊張感から生まれるものがいかに多いかを示している。

ココシャネル、ペリエ、エゴイストなどの広告のメイキングは万人に爽快な印象を残す。良くも悪くも広告は無意識に訴えかけるというが、彼の広告は、その商品を欲しいという本能が我々に備わっているかのように思わせる強さがある。山頂におかれたペリエを巡って、いったんはライオンに怖気つく女性が、吠え返してペリエを自分のものにする、ドレス姿の女性がガラスのショーウィンドーをけ破って香水を手に取り、そのまま刑務所送りとなる、3人のモデルが香水をボーリングレーンに投げ、心の底からストライクをたたえ合う、等。使い古された表現だけど、どれも強い女性の自己主張を掘り起こしたと言えるのかもしれない。

堀川御池ギャラリー 森田具海

三条通のカフェでいつものプレートご飯をいただいてから、ギャラリー素形、便利堂を経て、堀川御池ギャラリーへ。

1966年閣議決定以降の成田空港建設反対運動(三里塚)を象徴するフェンスに囲われ、成田空港近辺の無人の風景が収められる。予備知識がなければ、ホッパー的な寂寥感を誰もいない空間で表したんだろうかという印象も受ける。なかなかこれだけではメッセージは伝わりにくい印象。

作者(森田さん)は三里塚水俣学に重ね合わせようとするが、うーん、どうだろう。もちろん、そこに昔から住み続けている地元住民が横暴な権力に抵抗するという構造は共通しているのだが、健康と障害、そして当初はメカニズムが分からなかったが今は科学的な解決法があるという点は決定的に異なるような。三里塚も権力との闘いだけど、日本国民ほぼ全員が空港には賛成していて、実は「権力」の中身は社会の多数派そのものだったりする。

権力が弱くなるほどフェンスは強くなるという指摘、なるほど。ブルース・シュナイアー氏の著書に、内部の信頼が弱くなると物理的な外部のセキュリティに頼るようになる、というようなことが書いてあったっけ。

小野規

2階にある、小野さんによる東北沿岸の防潮堤建設の作品。解説にあるようにこれは防潮堤に対する抗議や批判ではなく、あきらめにも似た受け入れなのだろう。一言で防潮堤といっても色んな表情があることがわかってとても面白い。

たとえば従来の防潮堤が黒くなっているのにかぶせるように建設されている部分は、やがて増築された部分も黒くなって、もとからあった光景として溶け込んでいき、年輪のように防潮堤が重ねられていく将来を暗示しているかのようだ。重機や作業員によって今まさに整備が進められている光景は、これが雇用に貢献する公共事業であることを思い起こさせる。人工物であっても、いや人工物だからこそ、人の生活といろんな形で結びつくはずなのだ。

京都市中央市場 K-NAF

時間も無くなってきたが、二条から丹波口エリアへ初めて行った。フランス人アーティストK-NAFによるHatarakimonoプロジェクトは、超普通(Super ordinary)な働き者を普通じゃない(Extraordinary)手法で描き出すという趣旨。これが京都市中央市場の薄汚れた(失礼!)壁面にポスターのように貼られている。労働するという感覚、いいですね。評論家になってはいけない。私たちは毎日仕事が大変だとぶつぶつ文句言いつつも、仕事を通して社会や人の役に立っていると実感することで、生きがいを得ているのだ。この作品からは、そんな地に足の着いた労働観・生活感が伝わってくる。

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三三九 ギデオン・メンデル Drowning World

貯氷庫に昭和の産業機械が鎮座する高湿な空間にうってつけの展示だった。予備知識なしに見たので、あえて水に浸かって撮ったもの好きな写真…かと思いきや、アメリカ南部やブラジルやインドなど13カ国の洪水発生直後の人々が、途方に暮れつつも目の前の状況を静かに受け入れる様子を映し出したもの。

動画では、別の国での洪水後の我が家の復旧に当たる作業がシンクロして映し出される。災害が一瞬にして日常を破壊することを痛感、災害の記録としても貴重だ。でも一方で、ほとんどセリフなしで茫然としつつも我が家を淡々と片付け、カメラの前で取り乱しもせずにたたずむ人々を見ていると、むしろ人々の強靭さのほうを感じる。

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Kyotographie 2018 その2

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建仁寺両足院 中川幸夫

生誕100周年とは思えないほど自由で現代的で突き抜けた発想の生け花の写真パネルが、畳の上に並べられている。枯れかけた花も見事に生けられている。白菜を立てて生けたような作品は、故宮博物院の白菜を思い出した。もはや原形をとどめていない真っ赤なカタマリなど、ぎょっとするのもあってすべてを好きにはなれないけれど。

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両足院の会場は、庭園を通って離れにも展示があり、こちらも例年通り静謐な空間を生かした印象的なもの。小さなふすまを開け放ったところから花びらの流れができており、それを視線で追うと、中川の作品が床の間に飾られているという仕掛け。もう一つの離れには、花で作った真っ赤な聖書の写真の前に、豪華絢爛な蘭が生けられている。中川の作品は生け花を通じて過去と現在と未来とをつなげているという趣旨の解説があったが、インスタレーションと組み合わせることで、現在の「今この瞬間」だけの香りを通じて、私たちが生きているという感覚までつなげてくれるのだ(大げさかな?)。

ASPHODEL 宮崎いず美

寿司をおかっぱ頭に乗っけたり、リンゴの皮をカミソリでむいたり、いわゆるシュールな自画像。独創的で面白いのは確かで、注目されているのも理解できるのだけど、うーん、自分の部屋に飾りたいかと言われると…。ブロッコリーの雲の背景は、こないだ見た田中達也さんの作品のよう。

ご本人の作品集後書きによると、かわいいだの頭良いだのスポーツできるだの、才能にあふれる他の人に埋もれてしまう自分よ、落ち込まずにがんばれ、的な発想だったそう。今年のテーマUpそのものの、上昇志向だ(そういえばREMの90年代のアルバムにも同じタイトルのものがあった)。必ずしもポジティブシンキングではない、でもがんばろうみたいな、うるさ過ぎない中庸な上昇志向に共感できます。比べるのは他人じゃなくて、過去や昨日の自分。

Up

Up

ギャラリーギャラリー

さてこちらは番外編というかKG+です。四条河原町を南に行ったところにある1927年完成の寿ビルディング。金融業が入っていたが、1929年の恐慌でテナントビルになり、解体の危機に会いながらも現存しているとのこと。ここの5階は子供向け本屋とかギャラリーとかの小部屋がある。こういう空間が大切に使われているのはいいなぁ。京都の街を形作っているのは、寺社でも町屋でもなく、実はこういう近代建築だったりするのだ。

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京都 近代の記憶

京都 近代の記憶

展示は、写真と布が出会ったらどうなるかという趣旨で、彼らはそれをPhoTEXと呼んでいる。写真プリントTシャツをさらに繊細に推し進めた作品群は、どれもきれいです。もしかしたら出展アーティストは既に考えているかもしれないけれど、かすりとか着物とか、伝統的な織物と写真プリントという組み合わせも面白いんじゃないかしら。もちろん、何でも突飛な組み合わせを考えればよいわけではないのでモチーフは慎重に選ぶ必要があるけれど。

あと、写真×布という組み合わせでいえば、2016年のKG+に出展していた水渡嘉昭さんは、布にプリントしてまるで庭に洗濯物を干すかのようにラテンアメリカの街風景を展示して、爽やかな風にそよぐ感じを見事に再現されていた。

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Gallery PARC 守屋友樹

こちらもKG+。室町蛸薬師を少し北に行ったとこにあるギャラリー。イノシシが現れた神戸市内の閑静な住宅地を歩き回って、人もイノシシもいない風景を撮るとどうなるか、という趣旨。人為と自然とのせめぎ合いが続いてきた六甲山付近で、やはりそのせめぎ合いから遭遇するイノシシに注目している。人と自然との境界ってなかなか奥深いので、是非深めていただきたい。

嶋台ギャラリー フランク・ホーヴァット Un moment d’une femme

御年90のイタリア人(当時はイタリア領だったが今はクロアチア領らしい!)がフランスを中心に世界各地でパシャリと撮ってきたファッションデザインや街の風景。パリで通りがかるモデルを鼻の下伸ばして見入るおじさんたちとか、NY地下鉄のドアから見える風船売りのおじさんとか、自分のショーを後ろからこっそり見るココシャネルの影とか、草を売る女性を後ろから写した作品(草が歩いているように見える)とか。

少し離れたところにあるモンドリアン柄のマントの写真は、白黒なのにすぐモンドリアンとわかる。色彩は必須のような気もしていたが、実は構造が重要だったのかも。

アンリカルティエブレッソンのような、瞬間を切り取るすごさは感じないけど、2016年に京都市美術館別館でやってた「コンデナスト社のファッション写真でみる100年」同様、ファッション写真の変遷としても面白い。

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*[アート] 人間とその他との境界

www.youtube.com

進化する人類というエントリーをしたので思い出したけど、今年の夏に、似たような趣旨の展覧会をシンガポールで見てきた(同じタイトルの展覧会がダブリンでもあったが、かなり構成が異なるようだ)。

本展の第一部「能力の拡張(Augmented Abilities)」で紹介されている、昔から体の一部を機械で動かすパフォーマンスをしてきたオーストラリアのStelarc氏、1996年のアトランタ五輪パラリンピック炭素繊維の義足を付けて走ったAimee Mullins氏の「チーター足」、頭頂部に触覚みたいなものを植え込んで英国政府にサイボーグと公式に認められたNeil Harbisson氏など、昔から世に問うてきた先駆者に敬意。

この展覧会は、人間の内面というベクトルには進まなかったけど、自分のコピーロボットやAI(そして火災報知器のようなHAL)は意思や意識を持つのか?と考えると、ブレードランナーの「生身の人間とレプリカントの境界ってどこ?」という問いかけにも通ずる。

wired.jp

人間とAIの境界というテーマは、重いし避けられないけど、最近やや食傷気味でもある。では人間と自然の境界とは?(こっちも食傷気味かもしれないが…)

そこで個人的に一番面白かったのは、Authoring Environmentsというセクションで紹介されていた、Laura Allcorn氏の、人間が受粉をするためのキット(The Human Pollination Project)。2006年ごろから、ミツバチが突然大量にいなくなるCCDという現象が見られるようになった。もしミツバチの活動を人間がすべてやらなければならなくなったとしたら?という問いかけだ。生態系にはこんなに価値がありますという話はどこにでもあるけど、実際に人工物で自然を代替する取り組みをやってしまうのは、開眼だった。

アートやインスタレーションでの問いかけは、フィクションを超えるインパクトを持つこともあるし、未踏の領域における哲学的な問いかけに適しているのかもしれない。

余談ながらAllcorn氏、今はユーモアについてのプロジェクトで忙しいようだ。全然違うけど、こっちも面白そう。

IFCI

メタボリズムの未来都市展──戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン

メタボリズムの未来都市展──戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン

メタボリズムの未来都市展──戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン

2011年に森美術館で開催された展覧会のカタログである。過去の人が想像した未来を見るのがとても楽しくて2回見に行ったほどだ。また「実現せず」「現存せず」といった作品の設計図や在りし日の姿を見るのも、はかなさは感じるが、コンセプトは生き続けるというパワーを感じるし、「ありえたかもしれない世界」を見ていると、実現しなかったからこそ貴重なものという特別感もわいてくるものだ。

破壊と生成

本展は、奇しくも東日本大震災後の開催となり、多くの人が復興後の都市空間のあり方という視点で展示に臨むこととなった。実際、丹下健三によるマケドニア首都の震災復興、黒川紀章による伊勢湾台風の農村復興計画など、基本的にメタボリズムは戦災からの復興であったのだ。また磯崎新は、原爆投下後の焦土と化した広島の映像に未来都市の姿を重ね合わせた「電気的迷宮」について、都市とはそもそも災害や戦争によって破壊と生成を繰り返す存在であると提起した。

東日本大震災後、災害に強いまちづくり、強靭な国土計画、レジリエントな経済といったキーワードが乱舞するようになった(ここ2,3年は人口減少と地方創生の陰に隠れているが)。災害に強い建築というと、素人的には、被災してもびくともしないような強さを追求するという発想になりがちである。が、むしろ破壊されることを前提にするからこそ、建築をモジュール化することで、再度被災したとしても全体が消えるのでなくて部分的な破壊に留めることができ、残された遺伝子から都市が再生していくことができるのだ。防災ではなく減災、緩和ではなく適応の発想に近いかもしれない。

あまり安易なアナロジーは避けるべきだが、破壊と生成を前提にした建築というと、式年遷宮を思い出さずにはいられない。ちなみに、たとえば2015年に式年遷宮を迎えた京都の下鴨神社は、国宝や重要文化財を壊すわけにはいかないため、式年遷宮では修理や色の塗り替え程度しか手を加えないという。

一見、破壊されるのが前提で都市を作るというと、過度に悲観的にも感じる。でも――よく言われるようにこれが日本的な美的感覚なのかどうかはわからないけれど――永遠に続くものはないという感覚は、長期的に見れば現実的だ。持続可能な発展というと、いつまでも続くもの、変わらぬものを安易に想定しがちだ。が、人類や地球だって無限の将来までは続かないのだし、すべてのものを変わらず残すことは、減耗とメンテナンスがあったとしても物理的に不可能なだけでなく、ひょっとすると望ましくさえないのかもしれない。近年の持続可能な発展のテーゼ自体が間違っているとは思わないが、それを解釈する際に注意を要するものである。

伝統を生かす

1962年磯崎新設計の空中都市は、市街地が都市化により制御不能に陥っている現実に対し、東大寺南大門に想を得、空中から水平方向に延びていく逆三角形型の構造を提案した。また大谷幸夫の麹町計画は、近世の職住近接の町屋とその通りを現代に再現するものであった。関西の代表的なモダニズム建築とされる京都国際会館も、合掌造りや神社建築をほうふつとさせる。このように、日本の伝統文化を活かしつつ、増殖するイメージを持たせるのがメタボリズムの真骨頂であった。伝統を生かすというのも、やはり残された遺伝子から都市が再生するイメージだ。

水平方向に延びていく

大阪万博では、水平に空間が増殖していくスペース・フレームを丹下健三らが組み立てた。これは、ル・コルビジェの「パリの未来」を想起させるし、仙台駅前の歩道橋の連鎖などはそれに近いように思える。また槇文彦は、建築同士をつなぎ連結する空間が魅力的な都市を形成するという「リンケージ」理論を導入した。これは県庁所在地駅前の遊歩道や大学キャンパスに見られ、雨のときは便利だなぁと感じるが、確かにそれ以上の魅力形成につながっているように思われる。このように面か線かという違いはあるが、水平方向のつながりは、都市に新たな魅力を作り出している。

磯崎新の空中都市にも共通し、メタボリズムの一大特徴である、水平方向に延びていくという発想は、都市の魅力というだけでなく、現実的な問題への回答だったのかもしれない。『アメリカ大都市の死と生』解説で明快に指摘されているように、1950年代の欧米の都市は、インナーシティのスラムの荒廃により人々の郊外への脱出に歯止めがかからない状況にあった。日本の都市においてもスラム化して人が郊外に逃げ出す事態になっていたかどうかはさておいて、いずれにしても人口増加と郊外への人口流出という二つの問題に対する回答だったのだろう。現代の都市は、水平方向ではなく主に垂直方向に延びていくことで、すなわちビルの高層化と高密度化によって、この問題を解決した。

環状の空間を結ぶ

黒川紀章磯崎新による鄭州市都市計画は、放射線状から環状の都市への移行を提案したものであり、二つの環状都市を結ぶ構造となっている。なぜこれが共生の思想とつながるのか。人為的に自然環境を作り出すことで環境とも共生し、省エネをビルトインするということのようだ。でもそれだけだとちょっと安易な印象も受ける。

むしろこの形状そのものにヒントがあるように思う。音楽フェスティバルの会場間を移動しているときは、何となく安心感と高揚感がある。それと同じように、職場や学校や自宅のように、自分の場があるけれど、どれか一か所に留まるのではなく、その間を自由に往来できて、移動する間にもいろんなアイデアが生まれたり、なじみの人と出会ったりできるという構造である。また帰宅時には、放射線状に、どんどん人口密度が減っていく中をとぼとぼと家路につくわけではなく、集積地から次の集積地に向かうのである。と、ここまで書いて気付いたが、円環状の都市圏が増殖していくイメージは、エベネザー・ハワードの明日の田園都市そのものではないか。

では、メタボリズムの概念は、今後の日本の建築ニーズに沿うものであろうか。これまで述べてきた、破壊と生成を前提にする、伝統文化から学ぶという発想は、これからの日本の建築にも刺激を与え続けるだろう。世界的には、人口は安定に向かいつつも都市人口は増え続けるため、水平方向に延びていくコンセプトの重要性も減じることはないだろう。また人口減少と高齢化による都市のダウンサイジングという視点に立っても、モジュール化された建築は柔軟にニーズに応じて変化することが可能だろう。実際、ペルー低所得者層集合住宅コンペティションでは、すべての案を実現し、住民が評価するという画期的な提案を日本チームが行ったという。ニーズに合わせて改築が行われ、リアルタイムで住民のウェルビーイングにフィードバックが行われるという考え方である。

メタボリズム進化経済学

メタボリズムというと、産業メタボリズムという考え方があった(今もあるけど、むしろ産業エコロジーと呼ばれるようになってきた)。エネルギーやバージン資源を用いて最上流の原料が加工されて、モノが作られ、それが企業や消費者の手により利活用され、廃棄され、再利用されたり焼却されたりして、次なるモノづくりの原料となるまでのサイクルを、生物が新陳代謝するサイクルになぞらえて産業メタボリズムという。今風にメタボリズム運動が再興されたら、産業メタボリズムよろしく、きっと廃棄後のサイクルまで含めたアイデアがどんどん出てくるだろう。

またメタボリズムは、やはり生物学とのアナロジーを重視する進化経済学とも親和性が高いように思う。主流派経済学が市場の予定調和的均衡を重視するのに対し、進化経済学では、エージェント間の異質性、模倣、相互作用、レプリケーター動学、突然変異とイノベーションといった経済の側面が重視される。この見方からすると、自然を人工資本で代替するか否かという議論は浅く見える。魅力的な都市とは、自然・人工資本を組み合わせたものであることを我々は経験的に知っているし、メタボリズム運動が実践したように、自然のみならず人工資本そのものも、メタボリズム的に進化していくことが可能なのである。

*[アート] blur

KG+で立ち寄ったSferaExhibitionで、去年も放映していたBlurというショートショート、良いのでまた見てしまっただよ(90年代ブリットポップの話ではないです)。視力の弱い父が四六時中、子どもたちの色んな写真を撮っていて、現像もせずいったい何が楽しくてカメラに執着しているのかがわからない。けんかして距離を置いてしまった父が亡くなった後にフィルムを現像してみると、そこには大量のピンボケ写真に交じって、自画像をとる母の姿があった。カメラは母の形見だったのだ。ピンボケ写真は、父が見たそのままの世界だったのだろう。こんな作品は他の人には撮れない、という内容。

www.sigma-global.com

言われてみれば当たり前だけど、人の視界って、身長も視力も視線も興味の対象もみんな違うから、ばらばらなのだ。これを再現するという発想は面白いかもしれない。視覚障碍者の視界を再現する眼鏡とか、動物の視界を再現する映像などはあるけど、そんなカメラがあってもよいかもしれない(そういえば服が透けて見えるカメラがあったらいいなぁっていうしょうもない話、ドラえもんだったっけ?)。

人の視界のみならず、人の考え方とか世界観とか、「あ、こんなことだったんだ」と気づく瞬間がある。それが自分の親だったらなおさら感慨深いし、ほとんどの人には、大人になってやっと自分の親の言っていたことや考えていたことがわかったという経験があるんじゃないかな。でも、お礼を言いたかったり、単に「やっとわかったよ」と伝えたくても、時には遅すぎたりする。そんな切なさも、この作品は代弁してくれるのだ。

それとこの作品のみそは、フィルムという媒体の存在である。フィルムというワンクッションを置くことで、生産と消費との間に時間的ギャップが存在する。そこから、何が生まれるかわからないわくわく感、情報や思い出が失われてしまうかもしれない不安感、そしてこの作品が描き出すように過去とつながる期待感などがもたらされる。デジカメでは生産と消費とがほぼ同時に行われ、精度を保ちながら再生産することも可能だし、消費した画像がいまいちであればそれを次の生産にコストなしでフィードバックさせることもできる。また、チェキも生産と消費とがほぼ同時で時間的ギャップはないけど、こちらはアウトプットがアナログというギャップがある。

もちろんこの作品は、自社製品の宣伝映画でもある。その点に嫌悪感を示す人もいるけど、企業だったら仕方ないというか当たり前でもある。それ以上に、本業を通して人々の幸せに貢献できていれば、素晴らしいんじゃないかなぁ。

Kyotographie 2018 その1

www.kyotographie.jp

美術館えき 蜷川実花

日本にこんな色あったんだっけというくらい鮮やかな色が組み合わされていて純粋にきれい。

背景に傘をさして、しかもお顔の表面がおしろいで均一化されているため、幾何学模様が作りやすくなっている。

舞妓さんはあまり笑わないという先入観があったので、すみれ色の花の後ろから微笑む作品が印象に残った。手前の花、中央のポートレート、背景の傘という三段階で奥行きが与えられ、メリハリがある。

というわけで、伝統がモチーフにありながら、私にとっては構図も色彩も被写体も新鮮でした。

http://kyoto.wjr-isetan.co.jp/museum/exhibition_1805.html

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藤井大丸 ブラックストレージ Stephan James

1966年にカリフォルニアで結成されたブラックパンサー党の活動を記録したもの。デパート裏の空き地2階にある不思議な空間がTo struggle、To unite、To communicateなどいくつかのブースに分けられ、党員の闘志を感じる一断面が切り取られる。党の新聞を配る女性や子供など、あくまで平和的な手段に訴える人々の肖像が映し出される。平和が当たり前になった時代のデモとは違う雰囲気だったのだろうか。でもそこまでの緊迫感は感じない。簡単な足し算を書いた黒板を掲げる女の子の誇らしげな表情。これは、ブラックパンサーが自ら運営したIYIの授業のようだ。

奥のブースに掲げられた党の十か条要求のようなものが、誰でもわかる簡単な英語で、しかも当たり前すぎることが単刀直入に書かれていることにびっくり。今ならSDGsにありそうな内容で、たとえば第十条はWe want land, bread, housing, education, clothing, justice and peace. とある(どうでもいいけど、既に第4条で既に衣食住の住に言及しているのでMECEではない!)。

あとブラックパンサーは、単なるイデオロギー集団ではなく、子どもたちへの朝食提供や、オルタナティブ学校であるIntercommunal Youth Instituteを運営するなど、黒人の泥臭い生活支援を実行した偉大さがある。どこぞの国の政党も学べることがあるはず。

蛇足だけど、日本に支援会がありそれなりに翻訳書などが出ていたとは知らなんだ。しかも鈴木主税さんって、最近もスティグリッツとか訳した方(左寄りで一貫してますね)。

y gion 劉勃麟

背景と同じように自分にボディペイントを施すことで透明人間になるという着想。Ruinartシャンペンが所有する一面に広がる収穫直前のブドウ畑、じっくり醸成されるシャンペンが放つ幻想的な光で満たされた地下セラー、オートメーションの象徴のような瓶詰工場など、インスピレーションを湧き立てる場所でパフォーマンスを行っている。

もちろん正確には透明人間になり切れているわけではなく、目を凝らすと作家が見えるから、保護色のようなものでもあり、この隠れきれていない不完全さがまたいい。というか全く同化して気づかれなかったら意味がないわけで…。

劉は、元々は当局に対する抗議のパフォーマンスとして始めたものらしい。もちろん、透明人間になることで、自分という存在の不確かさとか、当たり前の光景が実は当たり前ではないとかの主張を読み取ることも不可能ではないだろう。でもメイキング映像を見ると、劉がフランスの大地で理屈抜きに楽しみながらやっているのがわかるし、結局それがほとんどすべてではないだろうか。

LIU BOLIN | Fine Arts | Invisible Man | Chinese Performance Artist

会場はSferaの右隣りのビルで2017年にリノベーションされたとか。狭い京都には本当に、奥深いところにこういうスペースがあってしびれる。

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*[読書]9プリンシプルズ

9プリンシプルズ:加速する未来で勝ち残るために

9プリンシプルズ:加速する未来で勝ち残るために

筆者による9つの原則は下記である。これは理論的に導き出されたというより、筆者とその仲間たちが長年の活動の中で実践してきたものだ。これまた色々刺激を受けた。

権威より創発
プッシュよりプル
地図よりコンパス
安全よりリスク
理論より実践
従順より不服従
能力より多様性
強さより回復力
モノよりシステム

訳者解説にあるように、こんなことが本当に起こるのだろうかという視点や、面白いことに対する感応度をよくしておくという視点もありうるが、まずは自分たちの組織で9つをどのように生かせるだろうかという実践的な視点もよいのでは(理論より実践!)。

たとえば「プッシュよりプル」で紹介されているのは、311の後、放射能を計測するガイガーカウンターを確保するため、ハッカースペースで自分たちで作り、自動車に取り付けることでたくさんのデータを集められるというアイデアをもらい、キックスターターで資金調達し、市民科学者からデータを集め、クリエイティブコモンズで提供した、というエピソード。

自分たちにこんなすごいことはできないけど、まずは手ごろなSNSを通じて仕事に関係しそうな人とつながっておくだけでも実践につながるだろう。あるいは、事業のアイデア段階で、部署や組織を越えて共有し、日本いや世界から適材適所の人材でチームを結成できればベストだろう。もちろん言うは易しで、アイデアだけ取られるリスクや、同床異夢で互いにリソースを浪費するだけで終わるかもしれない。でもまずは一歩を踏み出してみたい。

「地図よりコンパス」も言いたいことはよくわかる。マクロ的な鳥観図の中で自分を位置づけるのも良いけど、よくわからないがその時に面白そうな方向に進んでいくということであれば、大半の人はそんな感じで人生のコマを進めているのではないだろうか。しかし人をまとめる管理職となると話は別だ。私たちは、経営戦略やら、事業計画やら、五か年計画やらの中で、自分たちのやっていることがどこに位置づけられるかを明確にし、説明できないプロジェクトがあればメンバーの行動を修正しなければならない。公共プロジェクトであれば、なおさらアカウンタビリティが求められる。

本書が言っているのは、MITメディアラボのようなクリエイティブ志向の組織では、詳細な計画づくりがそもそも不可能では、ということだ。公共事業でも、グーグルや丸紅などが従業員の労務管理で実践しているように、説明できなくてもよいから面白い事業にたとえば15%は投じる、といったようなバランスが必要なのかもしれない。ベンチャー事業支援制度とかは、本当はそんなスピリットのはずなのだけど…。

訳者解説では、新しい発展に潜む可能性を感じ取ること、面白いと思う能力を身に着けることが次の時代の動きを読むのに大事という。おもしろいかどうか(あるいはちょっと違うけど、みんなが楽しんでやれるかどうか)は、とても定性的だし、人によっても異なるので事業評価などになかなか入れづらい視点だが、結構重要だったりするので、何か枠組みを考えたいなぁ。