佐伯祐三展に行ってみた

佐伯祐三というと、「ガス灯と広告」だったと思うけど、昔、新聞の彼の特集記事を見ていたら、とある大学病院の医局の先生に、お、佐伯祐三だな、と言われた思い出がある。

saeki2023.jp

久々に彼のパリの街角を見たいと思って、東京ステーションギャラリーへ。パリの街角はまだ今でも面影が残っているが、東京のそれは失われているものが多いから、下落合を描いた絵画などは、東京人にとって、ちょっとした考古学的価値もあるのだ。自宅近くの雑木林は、特に当時はどこにでもあるものだったろうが、冬の光を受けて、微妙な寂寥感を漂わせる。

新橋近くのガード下を描いた作品は、パリっぽい煉瓦との組み合わせになるような場所を都内で探していたのでは、という解説。確かに今でもお茶の水や新橋近くは、煉瓦っぽい昔のいい雰囲気が残っている。東京ステーションギャラリーの煉瓦の壁に、彼の作品は絶妙に溶け込んでいる。

絵に文字を書くということ

パリの街角にしても、改めてみると、黒や灰色が多く使われている。そしてもちろん、広告やお店の文字は存在感がある。私たちが外国に旅する時もつい注目してしまうのは街中の文字であるし、おそらく東京を訪れる外国人もそうだろう。ブレードランナーの「わかもと」ネオンサインを思い出す。

そういえば、小学校の時の図工の先生に、絵の中に文字は書くな、と注意されたっけ。絵が下手だった私としては文字もあった方が楽だったのだけど。絵としての表現に集中させたい教育目的はわかるけど、そんなに厳しくしなくてもよかったんじゃないかな。

リュクサンブール公園ユゴーレミゼラブルで、マリウスがコゼットに惹かれて、うろうろしていた公園。そこに、外苑前の銀杏並木のような、空がV字型になった並木があったのか。佐伯の絵では、(マリウスやコゼットはいないと思うけど)人々も枝の一部のようにリズミカルに溶け込んでいる。

ちょうど100年前の関東大震災で準備していた荷物が焼失、しかし11月に改めて渡仏したというからすごい。1928年に夫と娘を相次いでなくした妻、米子の悲しみは計り知れない。彼女もその後画家として強く生きたのだと願いたい。

一人娘のやち子像、ルノワールのような桃色の温かさに包み込まれている。表情の詳細は描かれていないが、それがかえって温かさにフォーカスを当てる効果になっている。あなたの娘さんは、夭折してしまったけど、こうして見る者を温かくさせる作品として、永遠に生き続けていますよ。

モランの教会と郵便配達人が相似な件

モランの教会など、建物の描写は、水平ではなく左向きに傾いて描かれているように見える。彼自身の体が曲がっていたのでは?と邪推してしまうほど。今回のポスターにも使われ、亡くなった年に描かれた郵便配達人、モランの教会そのまま!

角ばったベースのような輪郭の顔、左への傾き具合、そして直線の組み合わせ。比べてみると面白い。作品はおおむね時系列に並べられているとはいえ、キュレーターの方も、それを意識して展示されたのでは。

最後の、扉を描いた作品はな感動的。ここまで扉をクローズアップした作品はなかなかないのでは。佐伯祐三への扉である、と解説にあった通り、メタファーになっている。この奥には何があるのだろう、果てしない旅のようにも見える。残念ながら彼の人生はここで終わってしまったが、旅人の役割は、こうして脈々と私たちに受け継がれているのだ。

東京とパリとの往復、文字への執着、直線の組み合わせで描かれ、左傾した建物と郵便配達員。そんな余韻をもって会場を後にした。

インド映画「ピザ!」貧富の格差と偏見について

評価が高かったので何気なく観た映画。あら、これは拾い物。おすすめしますよ。

filmarks.com

あらすじ

インド南東部のタミルナドゥ州、チェンナイのスラムの向かいの空き地は、子供たちの遊び場。主人公の兄弟は、空き地の木に巣を作ったカラスの卵(英語題Crow’s Egg)を生で食べるのを楽しみにしている。ところがその空き地がある日突然、地元政治家のコネを持つ企業に買い上げられ、お金持ち向けのピザ屋が立った。スラムの子供たちにとっては、1日10ルピー稼いでも、1ヶ月働いてやっと1枚食べられるくらいの高嶺の花。

主人公の兄弟は、貨物列車からこぼれ落ちる石炭のかけらを集める仕事をするなどして、やっとのことでお金を貯める。しかしお金を持ってピザ屋に行っても、きている服がみすぼらしいから追い払われるのだった。

以下ネタバレ

そこでシティセンターに行って新しい服を買って出直す。なんとかピザにありつけて、一家幸せに暮らす…という話かと思いきや、中盤で驚きの展開。新しい服を着て、お金も持って行ったのに、スラムから来た子供であることを見て暴力を振るった店長の様子が動画で拡散し、あれよあれよというまに、雪だるま式に一大事に。

結局、最後にピザ屋からいつでもきていいよと言われてありついたピザを食べて一言。「ドーサの方が美味しい

政治家は人気取りに走り、街のチンピラは動画を利用してピザ屋をゆすって小銭を稼ごうとし、TV局は一大スクープと騒ぎ立て、ピザ屋の親会社はことを穏便に済まそうと取り計らう。獄中の父親は何をすることもできず、全く無力。それぞれの立場に応じた反応がどれも人間臭い。

そんな中でも、ひたすら子供のことだけを心配しているお母さんが素敵。お母さん役の女優(後述)、今後キャリアを重ねていくにつれて、表情の変化とか、もっと自然にできればと期待したい。

写真を見よう見真似で、ドーサでなんちゃってピザを作るおばあちゃん(お母さんの義母)がかわいい。それなのに、こんなのピザじゃない!といって孫たちに食べてもらえずかわいそう。しかも唐突におばあちゃんは亡くなってしまう。おばあちゃんに心ない言葉を浴びせてしまう主人公の2人、ちゃんとお墓の前で謝っておいてね。「ドーサの方が美味しい」とまで言ったんだから。

ピザの代わりに得たものとは?

求めていた即物的な対象――それはピザだったり賞金だったり宝物だったりする――が実は大したことはなかったけど、その過程で得られたものの方が大きかった、というのは一つのパターンである。ではこの兄弟は何を得たのだろう?もちろんピザの終身サブスクではない。兄弟の友情、母親の愛情、お金を稼ぐことの大変さや大人たちの世界の光と影に対する理解。

そしてそれ以上に、映画のテーマでもある、インド地方大都市にも広がる貧富の格差である。ピザ屋が兄弟を招待するという最後のオチは想定内だったけど、ピザ屋がことを穏便に済まそうとしたパフォーマンスであって(TVリポーターのご指摘)、ピザ屋がこの兄弟を愛しているわけでもないし、スラムの子供たちみんなを招待しているわけでもない(低価格帯の商品も出すと言ってたけど)。他の客たちは来なくなるかもしれない。

それ以上に、ピザ屋や富裕層がスラムの子供たちに向ける目は何も変わっていないだろう。絶望的なまでの格差は、経済だけでなく尊厳にも及ぶ。店長のひどい態度と暴行は、児童虐待はいけないという論点にすり替わって「解決」してしまったが、階級を越えたリスペクトに向けた真の解決ではない。こうしてみるとPCやSDGsなど表面的なお題目には、良い点も悪い点もある。

貧困とどう向き合うべきか

もちろん子供たちは、屈託ない笑顔を見せてくれるし、大人たちの心配をよそに元気に育つ。でも結局この子たちは、大人になってもにんじんシチューおじさんが関の山だろう。それでも幸せ、と言い切れるだろうか?この兄弟がピザ屋にいることが特別であればあるほど、現状は厳しいことを示唆する。

ちょっと別の見方もある。母親役のAishwaryaがTEDxでプレゼンしていたが、子供の時に父と2人の兄を亡くしており、自分でキャリアを切り開いてきたようだ。この映画の舞台チェンナイ出身だが、スラムの生まれではなく、中流の下のほう、と言っていた。

この映画の出演のためにスラムを訪れたとき、狭い空間の中で大人数が寝食を共にし、同じ空間で洗濯もトイレもする、それでもその家のお母さんは幸せそうで、感銘を受けたそうだ。

スラムの子どもたちは不幸だから救わねばならない、それこそが見る側の勝手な偏見でもあり、でも一方で貧困は解消しなければならない、そういう難しさも感じた。本人に聞いたら幸せだよと言った(=主観的ウェルビーイング)からと言って、そのままにもできないのはアマルティア・センが言う通り。しかし、かと言ってこちらの勝手な思い込みでいろいろ支援するのも独善。カーストや経済格差以上に、リスペクトや尊厳の格差を自分から作らないようにしよう。そんなメッセージにも感じた。


www.youtube.com

選択肢の中から選ぶだけでなく、たまにはゼロベースで考えてみよう

この人のことは知らないけど、メッセージは良いな。

Chase what you want.
Don't take what you can get.

私たちは、職探しをするときに転職サイトを見たり、レストランで食事するときにメニューを見たり、いいね!やリツイートしたり、あふれる情報の中から何かを選ぶことにたけてしまっている。

自分が何の知識も持たないことに関して、物事を進めるときには、選択肢の中から選べるのはありがたいものだ。それこそ「ナッジ」政策が目指すところでもある。

また、選択肢があることで、あふれる情報の中から、そんなにエネルギーを使わずに日々の選択をできる世の中になっている。オバマ前大統領が、二つの色のスーツしか着ないようにして、もっと大事なことを考えられるようにしていたというのは有名な話。

でもその、本当に大事なことに関しては、目の前にある選択肢の中から選ぶのではなく、初心に帰って何をしたいんだっけ、と考えることさえ放棄していないか?

無難な選択肢の中からスマートに選ぶだけでなく、やりたいことを紙に書いてみよう。そして賢さよりも大胆さをもって、そのやりたいことに必要なことをとりあえずやってみよう。

ひげもじゃさんとアイコさん

今週のお題「夏うた」

In the Summertime: 暑苦しい夏

「夏がくーれば思い出す―」やTubeやサザンもいいですが、すぐに思い出すのはレゲエラップシンガーのシャギー(もじゃもじゃの意味)が25年前に歌ってた、これですねぇ。ガラにもなく、海に繰り出したくなります。


Shaggy (featuring Rayvon) - In The Summertime


オリジナルは、マンゴ・ジェリー(Mungo Jerry。Mango Jellyではないよ)による50年前の歌!

Mungo Jerry - In The Summertime ORIGINAL 1970

オリジナルもカバーも、暑苦しそうなおひげを蓄えてらっしゃいますねぇ。

Summer 2020: 涼しい夏

最近もっぱら聞いているのは、日本人の血も流れている、LA出身ジェネイ・アイコさん。センシュアルなんだけど官能的すぎず、現実的なんだけど後ろ向きではなく、何というかバランスが良すぎて、とっても心地よい歌声とトラックです。


Jhené Aiko - Summer 2020 (Official Video)


しかもポストコロナ、ソーシャルディスタンスをとって、ビニールプールに入ってらっしゃる!

こうしてみると、外で暑さそのものを楽しむ歌から、家の中で暑さを冷ます歌にシフトしてきたわけです。コロナの影響か、あるいは近年暑さが半端なくなってきたからかなぁ。いや、単純に年取っただけかなぁ。暑いからこそラーメンを食べてますます暑くなるか、アイスを食べて涼むか、の差…ちょっと違うか。

では残り少なくなった夏、静かに楽しみましょう。

距離×コミュニケーション、人工×自然

ネットで知り合った方に教えていただいたのだが、デンマーク設計事務所BIGの作品で、コペンハーゲンに8ハウスという建物がある。その人いわく

広大な国立公園の目の前に位置していてルーフガーデンがあったり、建物内は敢えて各部屋の庭と隣接する長いスロープを通らないと部屋に辿り着けない設計で、住民同士の交流が促されるようになっていたり、自然との調和×コミュニティ×モダンデザインの掛け合わせが最高に素敵な建物

だそうだ。面白いなー。インターアクション・デザインって言うんだって。「建築家は人間関係を築いているのだ」と言っている人がいたけど動線によって交流が深まったり自然に触れたりという好例。

もちろんオフィススペースでもインターアクションを促すような動線はいろいろ議論されているはずだ。画像検索で見ると、BIGの事務所は何の仕切りもない感じだ。

私が昔いた会社では、途中からフリーアドレス制になって、何の仕切りもなく好きなデスクに座ってカタカタ仕事する感じで、意外と気に入っていた。インターアクションが促されたどうかはわからないけど、確実に動線は変わって自由度も増した。

(ちなみに今の職場でも、最近部屋を引っ越して、デスクトップがむき出し状態で、無駄なものがなくてスッキリしてるんだけど、そばを通る人が私の視線を感じるかもしれないので、パーティションを買うことにした。)

ソーシャルディスタンス×インターアクションデザイン

コロナの時代、換気と距離と健康を保ちつつコミュニケーションがとれるようなデザインも生まれてくるのではという期待もある。複数の人から聞いたんだけど(そのうちの一人はアムステルダムのホテルの朝食会場でWiFiパスワードを聞いてきたアメリカ人のお姉さん)、最近の建築業界では建物×健康がトレンドなんだって。住んでいる人の心身の健康を高めるのはどんな建築か、という視点。健康への投資がフロンティアになっている今、当然といえば当然。

コロナで閉館していた図書館に久しぶりに行ったけど、入口と出口の動線が一方通行になっていた。物理的距離を高めつつ、錯覚でもいいから心理的距離やインターアクションを促すようなデザインをビルトインしたり、既存の公共施設についてはアドオンしたりする工夫がこれから必要になりそうだ。

人工資本×自然資本

それだけでなく、8ハウスは、人工的な資本でありながら、インターアクションによってソーシャルキャピタルを醸成し、自然資本のありがたみを味わえるものになっていそうだ。日本庭園とかもそうだけど、自然の要素を取り入れた人工物を、混合資本Mixed capitalなどと呼べるかもしれない。

一つ気を付けるべき点は、私たちが求める自然って、必ずしも自然そのものではなくて、お手軽に気を紛らわしてくれる、都会からアクセスしやすい安全なものだったりする。それが一概に悪いとは言えないけど、気候変動や大気汚染や生物多様性など、本当に重要な環境問題において守るべき自然とは違う次元であることには注意。

リスク回避と不平等回避の起源、マインドフルネス

今回はちょっとジャーゴンばかりですみません。心理学者亀田達也らの実験では、自分自身のギャンブルにおいても、他者どうしの分配においても、マキシミンと功利主義をウェイト付けした準マキシミンの効用関数が最もフィットしたという(平均分散型やCRRA型に比較して)。

https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2020/01/pdf/028-038.pdf

しかも、ギャンブルにおいても分配においても、人によってウェイトは同じ傾向がみられたという。すなわち自分のギャンブルでリスクをとる人は、マキシミンのウェイトが低く、社会の中で最悪の人の状態への関心が薄い。逆に自分のギャンブルでリスクを避ける人は、マキシミンのウェイトが高く、社会的に最悪な状態を気に掛けやすい。

さらにfMRIの画像を見ると、「未来・あちら」を考えているときに活発化する脳の分野はどの人でも同じだったという。

リスク回避と不平等回避の起源

これはいろいろ興味深い。地球温暖化対策の割引率の最近の研究では、不確実性も不平等も、数学的に同じ扱いがされている。そもそも限界効用の弾力性は相対的リスク回避度とも、不平等回避度とも解釈される(ほかに異時点間の消費の代替の弾力性などの解釈もある)。

ハルサニやロールズが提起した無知のベールに包まれていると、自分も最悪の状態になっていたかもしれないという想像力から、自分自身のリスクを避ける傾向と恵まれない他者への思いが必然的に重なっていくことは、日常生活レベルでも十分理解できる。

リスク回避と不平等回避は、単純に数学的・哲学的な扱いが同じというだけでなく、神経、進化的な根拠が同じ可能性が高いというのは大変面白い。

リスクや不平等への思いは必要だけど、日常では目の前のことに集中しよう

マインドフルネスのプラクティスでは、「今・ここ」に意識を集中することが教えられる。逆に言うと「未来・あちら」を考えるのは、不安を高めることになる。社会や自分にとって最悪の状況を想定することは、メンタル的には不安をもたらすが、長期的な進化や生き残りのためには必須だったということだ。これは大きなディレンマかもしれない。

スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』を読んでも感じたのは、メディアやインテリ層に蔓延する将来悲観論や反知性主義は、悪いシナリオを考えすぎて、世界が良くなっている面のほうが大きいという認識とのバランスが崩れてしまっているということ。

結論として、最悪の状況を想定はするんだけど、それが日々の思考や感情や判断を邪魔してはいけない。この緊張関係の中で、というか両者のバランスをとるうまい方法を、社会や個人が模索し続けることになるだろう。

椿姫その2:デュマフィスによる原作

先述のようにオペラ「椿姫」を見る機会があったのだが、ストーリー的にいくつも謎が残ったこともあり、手に取ったのが本書。

椿姫 (光文社古典新訳文庫)

椿姫 (光文社古典新訳文庫)

オペラでは、小説後半部分に重点が置かれており、馴れ初めやアルマン(オペラではアルフレード)のうじうじした嫉妬などはかなりはしょられていることがわかった。

でもこうした、なかなか人には相談できないような嫉妬や後悔などのネガティブ感情や、マルグリットの家と劇場とを行ったり来たりするしょうもない言動の一つ一つも描かれていることが、かえって人間くさくて共感を呼ぶのかもしれない。アルマンは、付き合い始めてたった2日で、お金のために老伯爵を家に入れたというだけで、嫉妬で別れを切り出すほどだ。とは言え彼女の言動に一喜一憂し、意識過剰で独りよがりなアルマンに、私などの小人物は(もちろん相手は高級娼婦などではないが)、ひそかに、あぁ自分だけじゃないんだとちょっと安心する。そしてそう感じるのがおそらく私だけではないからこそ、普遍性を持つのだと思う。

しかしいくら当代一の美女とは言え、明らかに先がない恋愛に、弁護士資格もあるようなインテリがなぜ入れこんでしまうのか?これに関して彼女の友人プリュダンスは全くの正論を展開する。曰く、アルマンとの関係に気づいたら、老伯爵などパトロンはどちらかの関係を選ぶよう迫るだろう。そうしてマルグリットを社交界から引きはがしたら、彼女は生活できなくなる。時がたてば、不誠実な男なら彼女を見捨てるだろうし、誠実な男なら、彼女に同じ生活水準を保証するために自分自身を不幸にしてしまう、と警告する。しかし…恋は盲目ですな。

マルグリットは、男女関係のみならず友人プリュダンスに対しても、自分の心を率直に言えないと孤独を告白する。一見、友人が自分を大事にしてくれるようでもそれは相手の虚栄心からであり、自分に対する真の敬意ではないという。何という孤独!

その一方で、耳が痛い思いもする。私たちは友人などを大事にしているつもりでも、自分にとっての飾りとして大事にしているだけでは?そこに相手に対する本当の敬意はあるか?そう考えてみると、アルマンとマルグリットは、たとえ一瞬であっても、エーリッヒ・フロムの言う「能動的な愛」やハリー・フランクファートの言う「相手への敬意」で生の喜びを得たともいえる。でも現実には、そこまですごい愛じゃなくていいから、一瞬じゃなくて長く続けることこそが重要だったりする。

本書を読んで解けた、オペラを見たときの謎

  • 一体アルマンは毎日プラプラして、何してんのか?→父親の収入からの仕送りで生活している。弁護士資格は取っているが、パリでは仕事にありつけなかった(もちろん未熟練労働の仕事はあっただろうが、そこまでして自分でお金を稼ぐ意味がないということだろう)。
  • 父親がヘリコプターのように息子に付きまとうが、母親の存在は?→すでに亡くなって、財産を残している。
  • アルマンにもそこそこお金がありそうなのに、マルグリットはなぜ財産処分までする必要があるのか?→パリでの派手な生活のためにお金がかかる。高級娼婦は数人のパトロンを抱えるものの、老パトロンではそうした需要の半分しか賄えない。しかもマルグリットにはかなりの借金がある。
  • 父親はマルグリットに息子と別れるよう依頼する前に、息子に直接頼めばいいのでは?→オペラでははしょられているが、実際そうした。でもかたくなに断られたので、息子に内緒でマルグリットのもとに行ったのだ。父がマルグリットに頼みに行ったことは、小説では最後に明かされる。
  • 小説でもオペラでも、父親は高潔な人物として描かれている。あの時代、息子と娘の幸せを本気で考えたら、やはりあのようにお願いするしかなかったのだろう。なおオペラでは、マルグリットは父に「我が娘」として認めてもらえることになっており、マルグリットの病床にも駆けつけて間に合うことができる。

解説によれば、1789年のフランス革命で否定されたはずの王政復古と、海外植民地からの利益が還流し、バブルの様相を呈する経済の中、ブルジョワは繁栄、道徳への回帰が叫ばれた。ちょうど、ヨーロッパでもアメリカでも、これから黄金の時代が始まる胎動が聞こえてきそうだ。

ロラン・バルトによると、これは相思相愛の物語ではなく、親にも世間にも承認されない二人が、神格化された父親からの承認を勝ち取る物語である。さらにオペラでは、マルグリットは自分の娘として認めてもらえるのだから、この側面はさらに強調されている。そして肉体的には間もなく死を迎えるが、魂は開放されて力を得るという成仏的なエンディングを迎える。